『墨美』に掲載された作品の一つ。ピエール・スーラージュ「Brou de noix sur papier 63 x 50 cm, 1949」1949年、スーラージュ美術館 ©Adagp,Paris/Photo:musée Soulages,Rodez/Christian Bousquet

 戦後の一時期、東洋の伝統芸術である書と、西洋発の現代美術である抽象絵画が接近し、刺激し合った時代があった。交わりの中心にいた前衛書家の森田子龍(しりゅう)(1912~98年)は、当時欧米でモノクロの抽象絵画を描いていた画家たちを「白黒の仲間」と呼んだ。一昨年、102歳で亡くなったピエール・スーラージュ(19~2022年)はその一人。フランス抽象画の巨匠と前衛書の旗手がどのように出会い、交わったのかを考える二人展が、兵庫県立美術館で開かれている。

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 森田は兵庫県豊岡市出身。旧態依然とした書壇と決別するとして師の上田桑鳩(そうきゅう)とたもとを分かち、52年に「墨人会」を結成。前年の51年に創刊した雑誌『墨美』は目的の一つに「書を世界的規模の上に拡大する」ことを掲げ、創刊号の表紙にアメリカの抽象画家、フランツ・クラインの作品を採用した。

森田子龍の最初の展示室には、「蒼」(中央、1954年、国立国際美術館)や「底」(右、55年、京都国立近代美術館)などが展示されている

 戦後まもない関西では、新しい表現を求める芸術家たちがジャンルを超えて共に研さんを積む土壌があり、森田も52年に始まった研究会「現代美術懇談会」(ゲンビ)に参加。画家の吉原治良(じろう)や須田剋太(こくた)らと交流し、ゲンビ展では抽象絵画と書が並んで展示された。森田は海外での展覧会にもたびたび出品し、世界的に名を知られる存在となる。

 一方、黒一色を追求した作品で「黒の画家」と呼ばれたスーラージュは、この頃、褐色や黒色の幅広い線を重ねた抽象作品を描いていた。気鋭の画家として注目され、現代抽象絵画の先駆者だった長谷川三郎はその作品を「落ち着いた謹厳な楷書の世界」と表現し、高く評価した。

 2人の最初の接点は53年。スーラージュが『墨美』に作品図版の掲載を依頼し、14点が掲載された。同じ号に掲載された座談会「書と抽象絵画」では、吉原や須田を交え、スーラージュ作品について意見が交わされている。58年のスーラージュ来日時に初めて対面。63年、森田の渡仏時には再会を果たした。

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 本展では2人が出会った50~60年代の作品を中心に、約50点を出品。他の作家と同じ空間に展示されることを好まなかったスーラージュの意向をくみ、部屋を分けて交互に展示されている。最初の部屋には、森田の60年代初めまでの作品が並ぶ。太い筆を用いた造形性に富む少字数書の作品は、いずれも海外での展覧会に出品されたものだ。

 続くスーラージュの部屋は、『墨美』掲載作品でもある褐色のクルミ染料で描かれた作品で始まる。51年に初めて日本で公開された作品も、約70年ぶりに展示。61年に紙に墨で描かれた3点の作品などは書との接近を最も強く感じさせるが、70年代にかけての油彩画の大作では黒が画面を覆っていく。

スーラージュ作品の展示風景。紙に墨で描かれた1961年の作品3点が並ぶ=いずれも神戸市中央区で4日、山田夢留撮影

 欧米歴訪から戻った森田は64年、「漆金」という技法を編み出し、明快な筆跡によって時間経過を可視化した黒と金の作品を制作。スーラージュは70年代末から黒一色の作品を手がけるようになり、「黒の向こう」を意味する「ウートルノワール」と名付けて晩年まで制作を続けた。スーラージュ二つ目の部屋には87年制作のウートルノワール1点のみが飾られ、強い印象を残す。

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 前衛書と抽象絵画。森田とスーラージュはともに、作風の影響を与え合う関係ではなかった、としている。「影響関係ではなく『出会い』というべきものだったのでしょう」と担当学芸員の鈴木慈子さん。2人の作品を並べて比較するのではなく、「作品同士が視覚的に対話するような展示を心掛けた」という。

 確認されている2人の面会は2回だけで、書簡なども見つかっていない。後年は抽象絵画批判も展開した森田だが、92年にスーラージュが高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した際、「私の書観を彼なら心からわかってくれるに違いない」と寄稿。本展に向けた調査でそれを読んだ鈴木さんは、親愛の情の深さに驚いたという。「書と抽象絵画、やりたいことに違いはあれど、スーラージュを心から尊敬していたのだろうし、30年以上前の出会いがもたらした深いインパクトも感じました」と鈴木さん。「スーラージュと森田子龍」展は5月19日まで。

2024年4月24日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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