絵をテーマにした展覧会といえば、展示される作品から全てが始まる、と思うだろう。だが今回、例えば天才と称された瀬羅佐司馬(生年不明~1949年)の絵の現物は一枚も見ることができない。友人の氷上恵介(23~84年)にしても晩年のスケッチが紹介されるのみだ。この2人は、ハンセン病患者の療養施設、東京・多磨全生園で暮らしながら描いていた。
本展は園内の絵画活動を丁寧にたどっていく。23年、入所者による初の展覧会が開催された。だが、描き手も出品作も不明だ。43年には絵画サークル「絵の会」が結成される。展覧会の冒頭には、会員が参加した書画展の記念写真(46年)が大きく展示されるが、ここに写る絵も所在不明だ。結成時から参加したのが瀬羅や氷上で、写真にも自画像を持つ瀬羅の姿がある。
スケッチや園内誌に残るのは風景画が多い。強制隔離政策や社会の偏見などで、目にできる景色に制約もあった。望月章(27~2012年)は、遠い存在となった故郷・静岡を思いながら、新聞や雑誌の切り抜きを参考に富士山を描いた。
人物画を描いたのは、国吉信(1910~94年)。園内の文化祭に展示されたという群像の大作は所在不明だが、写真と下絵が残る。裸体の5人が何かを渇望するように天を仰ぐ絵は、他の描き手や国吉自身の他の絵と比べても異質だ。しかも、足や手が欠損した人物を描いている。どんな意図をもって描いたのだろうか。
一方「絵の会」に女性は一人もいなかったといい、本展で紹介するのは個人で活動した鈴村洋子(36~2020年)のみ。短歌や手芸の分野には女性が多かったらしく、ジェンダーの観点からも園内の絵画活動を考えることができそうだ。
残った絵だけでなく、残せなかった人の絵や、描きたかったけどできなかった人の絵もまた、その人の生きた証しなのだと学芸員の吉國元さんは言う。46年の記念写真に戻ると、資料整理を進めるなかで先日、写真に写る村瀬哲朗(宇津木豊、1911~没年不明)の静物画の所在が確認された。会期途中から、この絵も展示されているという。東京・国立ハンセン病資料館で、9月1日まで。
2024年7月22日 毎日新聞・東京夕刊 掲載