「山神像」江戸時代 兄川山神社(岩手県八幡平市)=撮影・須藤弘敏

 なんだか変な像だ。龍谷大龍谷ミュージアム(京都市下京区)で開催中の特別展「みちのく いとしい仏たち」で展示されている「山神像」(兄川山神社所蔵、江戸時代)。とんでもなく面長で、首も長過ぎる。名前は神様なのに、頭には仏(如来)の特徴である螺髪(らほつ)らしき表現もある。そして、柔らかくほほ笑んでいる。こんなに自由で、愛らしい仏像(神像?)は見たことがない。

 岩手、京都、東京を巡回する本展は「民間仏」と呼ばれる仏像や神像を集めた初の大規模展。青森、岩手、秋田の北東北3県の小さなお堂やほこら、個人宅の神棚などでまつられていた仏たちで、仏師ではなく、大工や木地師といった村人が手近な木材から彫り出したものがほとんど。お寺の立派なご本尊とは違ってきちんとした教えや伝統に基づいているわけではなく、いわば「規格外」の仏たちだ。しかしどれも親しみ深く、胸の奥を温かくしてくれる魅力がある。

 民間仏は、暮らしの中に溶け込み、人々の苦悩や愚痴を受け止め続けてきた。冒頭の山神像も、地元の岩手県八幡平市で林業に携わる人たちが今もあつい信仰を寄せる。民間仏研究の第一人者で、展覧会を監修した須藤弘敏・弘前大名誉教授の表現を借りれば、こうした仏たちには「南部弁や津軽弁が染みついて」いる。

 岩手県一関市に伝わった「観音菩薩(ぼさつ)立像」(松川二十五菩薩像保存会所蔵、江戸時代)は、両方の乳房があらわになっている。「ここまではっきりお乳が表現されている観音像は珍しい」と、龍谷ミュージアムの村松加奈子学芸員は語る。彫刻もおおざっぱで、斜めに傾いてしまっているが、多くのお母さんたちがこの観音様に子育ての悩みを吐露している様子が目に浮かぶ。

 宝積寺(岩手県葛巻町)の「六観音立像」(県指定文化財、江戸時代)は重厚な作品ながら、やはり「規格外」。「聖観音」などの名がそれぞれ背中に墨書されているのだが、例えば「馬頭観音」は、特徴である怒りの表情や頭上の馬頭はなく、すました表情でえぼしをかぶっているだけ。「千手観音」の腕は2本だ。しかし、独特な衣や小ぶりの顔に浮かぶ思い詰めたような表情には迫力がある。自然災害で失われた命を供養する目的で造られた可能性も指摘される。個性的な面相に、亡き人の面影が反映されているようにも思える。

宝積寺の「六観音立像」について解説する村松加奈子学芸員=京都市下京区の龍谷ミュージアムで、花澤茂人撮影

 慈眼寺(青森県五所川原市)の「子安観音坐像(ざぞう)」(江戸時代)は、お下げ髪の女性のような観音様が、赤ちゃんを抱きしめる姿。村松さんは「気候の厳しい陸奥(みちのく)では、亡くなる子どもも多かった」と背景を推察する。可愛らしさの奥には、幼くして我が子を亡くした母親、妻子共に先立たれた父親の痛切な祈りが積もっているのかもしれない。

 9月17日には関連のトークイベントがあり、仏像好きで知られるお笑い芸人のみほとけさんと村松さんが対談。村松さんは「作り手と祈る人の距離が近いのが特徴」と語り、みほとけさんも「とにかく祈りたいという思いがあり、感じたままに作られたのでは」と話した。

 民間仏には「にこにこ顔」が多いが、祈った人たちは泣き顔だったことも多いだろう。苦しい日常の中、威厳も神々しさも持たずにほほ笑みながら寄り添ってきたのだ。ただそれだけに、長らく美術史や民俗学の研究対象とされてこなかった。保存状態の悪い像も多い。展覧会がその価値を再認識するきっかけとなることを期待したい。

 「みちのく いとしい仏たち」は11月19日まで。月曜休館。

2023年10月23日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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