近代の日本画界を先導し、「国民画家」と称される横山大観(1868~1958年)の回顧展が、北九州市立美術館本館(戸畑区西鞘ケ谷町)で開かれている。足立美術館(島根県安来市)のコレクション50点で構成。日本の風土に根ざし、深い精神性をたたえた芸術世界が広がっている。

横山大観「無我」(1897年)

 教科書で見た?「無我」

 足立美術館は、実業家、足立全康氏(1899~1990年)の収集した美術品をもとに、1970年に開館した。日本屈指の大観コレクション(約120点)を誇り、約20点を常設展示している。一つの美術館の所蔵品だけで、初期から晩年までの作品を網羅する大観展が催せること自体、驚きに値する。

 作品はほぼ制作年代順に展示されている。最初に来場者を出迎えるのは「無我」(1897年)。男の子が川辺に一人たたずむ。「教科書で見たことがある」と思った人も多いかもしれない。実は大観の初期作「無我」は東京国立博物館(東博、東京都台東区)、水野美術館(長野市)が所蔵し、足立美術館コレクションの本作を含め、計3点存在が確認されている。いずれも1897年作。絵の内容もほぼ同じだが、教科書でおなじみなのは東博版になる。

 3点の中で最も早い作例とみられる本作の童子は、赤子の面影が残る東博版と比べると、面長で年上の印象を受ける。背後の芽吹いた猫柳、足もとのスミレから季節は早春と分かる。人生における幼子の立場と重ね合わせているのだ。禅でいう無心・無欲の悟りの境地を、純真な童の姿で表す奇抜なアイデアが大観ならでは。着物と草履が不釣り合いに大きく、子が若者に成長した姿を想像させる。

 困窮の時を経て売れっ子に

 師と仰ぐ美術研究家、岡倉天心の遺志を継ぎ、日本画の革新運動に取り組んだ大観だが、その人生は順風満帆ではなかった。水戸藩士の家に生まれ、第1期生として東京美術学校(現・東京芸術大)を卒業。28歳で母校の助教授に就くものの、校長の天心が追放されると、自身も辞職し、日本美術院創立に参加する。しかし、絵は売れず、生活は困窮した。菱田春草と共に創始し、輪郭線をぼかした没線描法は「朦朧(もうろう)体」とからかわれ、初めのうちは評価されなかった。

 天心が死去し、1年後の1914年に活動が途絶えていた日本美術院を再興。院展を舞台に作品を発表、在野での地位を確立し、37年には第1回文化勲章を受章している。戦時下は皇室や政府との結びつきを強め、作品の売上金(50万円)で軍用機が4機購入された。戦後は戦争協力者として非難されることもあったが、日本に居場所がなくなり、フランス国籍を取得した洋画の藤田嗣治とは対照的に、日本画壇に君臨し続けた。

 琳派的様式の頂点「紅葉」

 本展では大観の代表作の一つ、「紅葉」(1931年)も公開されている。六曲一双のびょうぶ仕立て。主人公たる紅葉の赤(朱)と、流水の青を基調色に、濃密な筆致で秋の絶景を現出させている。現実の光景というよりも、理想的に再構成された空間なのだろう。右隻を彩る紅葉のスペースは二曲分ほど。抑制の美学が息づき、上空を飛ぶセキレイに視線が向くよう、計算されている。左隻は見ごろを迎えた紅葉で埋め尽くされ、右隻との対比が利いている。大観の長い画業を見渡しても、琳派的装飾様式の頂点に立つ作と言える。

横山大観「紅葉」(1931年)の左隻と右隻の一部=渡辺亮一撮影

 理想の美を求め続けて

 大観芸術のトレードマーク、富士山は日本を象徴する。葛飾北斎の例を持ち出すまでもなく、日本画では王道の画題の一つ。雪をいただき、威厳に満ちた姿で表される例が多いが、本展出品作の「夏之不二」(20年)は様相が異なる。夏の富士だけに雪はごくわずか。鮮烈なブルーで彩られ、柔らかみを帯びた山のフォルムにはポップな感覚が盛り込まれている。保守的なイメージで語られがちな大観だが、「朦朧体」がそうだったように、時代に先駆けた改革者でもあった。

横山大観「夏之不二」(1920年)

 戦後の批判にもめげず、大観は富士を描き続けた。日本一の霊峰に「理想の美」を見たからに他ならない。本展の最後を飾る作は絵画ではなく書「趁無窮」(52年)。「むきゅうをおう」と読み、永遠に極まることのない芸術の道を歩む自身の姿勢が示されている。会場を巡れば、言葉の意味が実感できるだろう。日本的心性を宿す大観の作品は現代人の心にも響き、普遍的な輝きを放っている。

 5月19日まで。北九州市立美術館本館(093・882・7777)。

2024年4月26日 毎日新聞・地方版 掲載

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