対談した写真家の川田喜久治さん(右)と石内都さん=オンライン画面より

 ページをめくるたび、繰り返し写し出されるのは原爆ドームの壁面の「しみ」。川田喜久治さんは1965年、最初の写真集『地図』を発表し、敗戦の記憶を抽象的イメージであぶり出した。「日本写真史の金字塔」と名高い本作を巡って6月、ヒロシマの被爆遺品を撮り続けている石内都さんとの対談が実現した。

 「原爆ドームとの出会いは、週刊誌(のカメラマン)をやっていたからです。『ヒロシマ』の写真集を作った土門拳を特集するというので土門拳を撮りに行った」。55~59年、新潮社に勤めていた川田さんが当時のことに触れると、石内さんは「土門拳を撮りに? 面白い」と驚きを隠さない。2人の対談は大阪市のザ・サードギャラリー・アヤで開かれた川田さんの個展「地図」(6月18日で終了)のトークイベントとして配信された。

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 モノクロの『地図』には、原爆ドームの天井や壁に広がるまだら模様の混沌(こんとん)としたイメージがうごめく。それらは焼け焦げた死者たちの影を、黒々と渦巻く暴力の記憶をいや応なく喚起する。そこに菊の紋章や特攻隊員の肖像、しわくちゃになった日の丸といった〝冗舌〟な写真がちりばめられる。抽象的なイメージと具体的なモチーフ。その明滅によって見る者の想像力を刺激する。

川田喜久治『地図』より「原爆ドーム天井 しみ」ⒸKikuji Kawada, Courtesy of PGI, The Third Gallery Aya

 川田さんは広島で土門その人を撮り、原爆ドームの「しみ」にヒロシマの「すべて」を見た。のちに現地を訪れたのは2、3回だけだったと対談で明かした。「怖くてね、そんなにおれないですよ」。『地図』を出版社に売り込むため、グラフィックデザイナーの杉浦康平さんと手製の見本版(マケット)を2分冊で制作。杉浦さんによる別のデザインで65年に美術出版社から刊行されたこの作品集は、全ページ観音開きという特異な作りでも注目を集めた。

 石内さんはカメラ雑誌の小さなカットで『地図』の日の丸写真を目にし、「これは一体何だろうとビックリした」と当時の衝撃を振り返った。「日の丸が写っているけど、日の丸を撮っているんじゃない」「写真って自由なんだ」と感じたそうだ。「私がヒロシマを撮り始めたのは2007年ですから、『地図』にはずいぶん前に出会っている。その後、原爆ドームがこの写真集のメインだと気づいた時にまたすごいショックで。(『地図』は)私にとっては今に通じる写真で、導かれたのかな、みたいに思う」

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 川田さんは学生だった50年代前半、土門を選者とする雑誌『カメラ』月例写真の投稿作家として腕を磨いた。土門が「絶対非演出の絶対スナップ」によるリアリズム写真を唱えた時代。自身もその影響下にあったが、やがて新潮社を退社してフリーとなり、リアリズムと決別するようにイメージの世界で自らのスタイルを確立していった。写真家集団「VIVO」を東松照明らと結成したのもこの頃だ。

 「主義主張があって、それでものを見るようになっていた時代でしょ? おまけにその中に難しい理念が入ると、余計に写真はかたくなってどうしようもなくなる」と川田さん。石内さんが「ヒロシマというのは戦後の反戦平和の象徴みたいなもの。だけど川田さんの写真は違う」と話を振ると、「旧来のイデオロギーに巻き込まれると自分の写真じゃなくなる」「僕はもっと違った方向から、いつでもフランクに柔軟性を持ってあらゆるものに反応したいということを考えていた」と語った。

 約1時間に及ぶ対談の終盤、「地図というタイトルはなぜ?」と石内さんが疑問を投げた。川田さんはこれから先、何を撮ってもカバーできるような「なるべく大きく、広く、深い意味合いのものを考えた」と説明。「地図は平面でありながら立体的でもあり、同時に精神的な、心の地図というのもある」。写真史に刻まれた川田さんの第1写真集は、戦後日本を表象する地図であり、自身のその先を指し示す地図でもあった。

2022年7月11日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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