畳にちゃぶ台を置き、その上に道具を並べている。奥は義足の数々

 手足に知覚まひや変形を引き起こすハンセン病。療養所に暮らした患者や回復者らは日常生活で直面する不自由をさまざまな道具を活用して乗り越えてきた。東京都東村山市の国立ハンセン病資料館は企画展「生活のデザイン」を開き、実際に使われた道具を通して使い手の人生を想起させる場を提供している。8月31日まで。

 戦後、ハンセン病は化学療法で完治するようになった。しかし後遺症によって知覚を失った多くの回復者は、特に手足の先を自由に動かすことが難しい。

ボタンかけ(手前の5本)。電話には押し間違えを防ぐための突起が付けられている

 回復後も療養所生活を送る人は少なくない。本展で展示している約180点の道具類の多くは資料館に隣接するハンセン病療養所、多磨全生園で実際に使われていたものだ。使っていた人を近くに感じられるようガラスケースには収めず、実際の生活に近い高さや、使用される状況に近い形で並べた。例えば、同じ館内の常設展ではケースの中に寝かせて展示していた義足を、本展では立てて見せていた。義足の数々は使い手の好みに合った靴下や足袋を装着しており、彼・彼女らの個性だけでなく、はき口に足を入れ、体重をかけて前に踏み出そうとする姿まで想像させる。

 「わっかゲタ」「だるま靴」といった療養所でよく使われていた履物や、足の長さに合わせたオーダーメード靴などは玄関を模したタイルの上にそろえて置いた。やけどを防ぐウレタンカバー付きの湯飲みや滑り止めのテープを巻いたおわんなどは長年使われてあめ色になった座卓の上に並べ、療養所の日常を見せた。

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 ふだんの生活を支える道具である自助具の数々は、かつての過酷な療養所生活も浮き彫りにする。高さ約30センチのブリキの筒の先端に木片が取り付けられた義足は1909年に開設された全生病院(現在の多磨全生園)で両足を切断した入所者が考案、製作したものだ。切断した足の先を包帯で巻きしめ、筒の中に突っ込むだけの簡素なものだった。

 そのころの療養所では、障害の重い人は軽い人の介護を受けて生活せざるを得なかった。肩身の狭い思いをし、気兼ねや忍耐と隣り合わせの日々だった。看護職員の数は十分ではなく、自助努力による暮らしを強いられた。「なるべく人の世話にならぬように」と、身近にある安価な材料を工面し、義足や松葉づえを作った。課された労働に応じ、大工道具なども自ら改変した。

ホルダーを取り付けたスプーンとフォーク。使い手の好みが反映されている

 木製の柄の先に針金の輪を取り付けた「ボタンかけ」も、自分のことは自分でしたいという思いが形になった自助具のひとつ。輪をボタンホールに差し込んでボタンにひっかけて留める。指先でつまむ動作が困難な患者や回復者らは自分に合ったサイズのものを手製した。一人でトイレに行くため、ファスナーの先にひもをつける工夫をする人もいた。

 一方、カラフルなアクリル製ホルダーを取り付けたカトラリーや、喫煙のための補助具、囲碁の石を置くための柄の長いスプーンなどは、強いられた生活を、自らの生活と捉え直し、小さな自由を守り、楽しみを見いだす回復者らの姿を伝えている。「生活のデザイン」にふさわしい道具が考案されるようになるのは、50年代後半以降、療養所に専門の職員が配置されるようになってからだ。

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 「社会復帰のみが更生ではない。歩けないものが歩き、箒(ほうき)を持たなかった者が箒を持ち、フォークを持てなかった者がフォークを持つことが更生である」

 同園の元入所者自治会会長、田代馨さん(18~2005年)が「不自由者の自主性ということ」という題で60年に園内誌に記した言葉だ。展示室の壁に掲げられていた。本展を企画した吉國元学芸員は「自由とは、生きるとは、と自問し『更に生きること』と向き合う、静かな決意を感じさせる言葉です。この決意は、今回紹介しているような数々の自助具と共にあったはずです」と語る。

 田代さんのこの言葉は22分の映像資料のなかに出てくる道具の使い手たちの姿が体現していた。右手首に包丁を固定し、巧みに柿の皮をむいて切り分けていた山内きみ江さん(34年生まれ)。かつては悔しさを抱えながらどんぶりから直接すするように食事をしていたという。見かねた兄が竹でフォークを作り、手ぬぐいで手に結わえてくれた。それが初めて用いた自助具だった。

 道具の数々は、どのような環境であっても創意工夫をし、道を整えていく人間の強さを象徴していた。同時に、患者と社会を強制的に切り離したハンセン病政策の過ちを静かに浮き彫りにもする。使い手の要請に裏打ちされた造形的な強度も見どころだ。

2022年6月15日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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