誰もが学校で体験した版画。なぜ授業に版画の時間があったのだろう。歴史をたどれば、戦後日本社会に根ざした二つの熱い運動に行き着く。顧みられることが少なかった「私たちの美術史」を探る企画展「彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動」が東京・町田市立国際版画美術館で開催されている。

 近年、栃木県立美術館の「没後30年 鈴木賢二展」や福岡アジア美術館ほかの「闇に刻む光 アジアの木版画運動」など版画運動に着目した展覧会があったが、本展は、調査で作品・資料を掘り起こし、約400点で1990年代までの民衆版画運動を概観するものだ。

教育版画運動の下、各地の学校で作られた共同制作の版画や民話版画集

 「モダニズムや抽象表現に対して、リアリズムは主流から外れた。なぜ重要視されなくなったのか。多くの人が触れた表現の歴史を明らかにしたかった」。学芸員の町村悠香さんは話す。周縁に置かれた「私たち」の視点で戦後の美術を見つめる試みだ。

 まず、敗戦直後の日本で展開されたのが「戦後版画運動」。30年代に中国の作家、魯迅が提唱し、社会・政治運動と密接に関わった木刻(木版画)運動に源流を持つ。

 47年、神戸を皮切りに、中国木刻の展覧会が各地で開かれる。持ち運びやすさを生かして版画約30点を1セットにし、実技や理論・歴史の講師派遣もオプションで用意するという手法が興味深い。見る側を作る側にいざなう仕掛けで、地域の版画サークルの誕生にもつながった。

 ネットワークを基に展示するスタイルは、50年から始まった丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」の全国巡回を思い起こさせる。実際、俊は「湘南木版画協会」に参加していたといい、体験者に取材し、共同制作する方法も同時代的だ。

 木刻巡回展を契機に49年には「日本版画運動協会」が設立され、鈴木賢二や宮崎駿監督の義父である大田耕士ら作家のほか、アマチュアも加わって社会政治問題や平和の訴えを版画で表現した。

■  ■

全国に草の根で広がった版画サークルのサークル誌

 展示の後半は、教育現場での実践に光を当てた。共同制作による白黒の大画面が壁面を埋め、北海道から沖縄まで学校で制作された約80冊の版画集が平台に並ぶさまは圧巻。質量共に活動の厚みが伝わってくる。運動の中心になったのは51年に「日本教育版画協会」を設立した大田。地域の教員有志と子供を主体に、版画を通して人間形成を促す「教育版画運動」だ。

 公害が社会問題化するなか、黒煙があがる工場の風景を描いたり(川崎市)、農家の女性や子供たちが行う干し柿づくりの光景を描いたり(石川県志賀町)。地域の歴史や民話に材をとったものも多く、子供たちの生活に根ざしたテーマは実感にあふれている。幻想的な「虹の上をとぶ船・総集編(2)」(青森県八戸市)は、宮崎監督の映画「魔女の宅急便」で劇中画のモデルになった。

 彫刻刀や版木がなければ、他の道具を用いればいい。うまく表そうとしなくてもいい。教育版画には「魯迅の木刻運動に通じるDIY(Do it yourself)の思想がある」と町村さんは話す。誰もが簡単に、主体的に取り組めるのが木版画なのだ。

■  ■

 木版画の水脈は現在も途切れていない。東京芸大で5月初旬にあった「不和のアート:芸術と民主主義」展では、東南アジアの動きから影響を受けた日本の集団「A3BC」が木版による作品を展示。また、社会の閉塞(へいそく)感を木版で表す風間サチコも注目を集めている。国際的にも社会や政治が揺れ動くなか、日本でも再び今日的表現として受け止められつつあるようだ。

A3BCの木版画や他集団との協働作品

 町村さんは調査を経て「リアリズムが必要とされる場がある」と実感するようになったという。貧困や暴力など厳しい現実があり、それを伝えるにはリアリズムでなければならなかったと指摘する。「こうした美術の系譜が見えてくると、現代の若いアーティストにとっても、参照しうる表現になるのではないでしょうか」。7月3日まで。月曜休館。

2022年5月18日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

シェアする