鎌倉時代に歌人として活躍した藤原定家(1162~1241年)の個性的な書風である。図版は「更級日記」の44丁の裏から45丁の表にかけて見開きの2㌻である。右肩上がりを抑えた扁平(へんぺい)な字形が特徴で、懐を広くとって書き進めており、明るく大らかである。行間の狭さがまったく気にならない。一文字の中での太い線や細い線による変化があり、散らしのない単調にも見える書写に変化の妙を見せている。
多くの人は、宮廷生活を連想する場合、雅(みやび)な時間がゆっくりと過ぎていくと思われる。ところが、定家は宮中に出仕するほか、九条家に家司(けいし)として勤めていた。家司は、親王家・内親王家・摂関家および三位以上の家に置かれ、家政をつかさどった職である。つまり、優雅な時間は思ったより少なく、多忙な日々を過ごしていたのである。その間に、よく知られている何度にも及ぶ勅撰(ちょくせん)和歌集や『源氏物語』の書写を成し遂げている。
この「更級日記」も古典文学の学書の一環での書写である。この定家の書写のものが伝存する『更級日記』の祖本なのである。つまり、この定家本がなければ、今日に『更級日記』は伝わらなかったといえるので、この皇室伝来の一本はきわめて貴重な存在である。ところで、定家の筆跡の特徴の右肩上がりを抑えた書風は、一時代前の能書として知られる藤原定信と共通する。彼の書は「定信様(さだのぶよう)」として写経の一つの形式として著名である。定信は一切経を一人で書き上げる一筆一切経の功を成し遂げている。
定家もはじめは伝統的な和様の書風を学んだことであろう。その後に『源氏物語』の証本作成に尽力するなど文学作品の書写に努めた。こうした研究によって自(おの)ずと早書きとなり、書風形成に繫(つな)がったことは容易に理解できるであろう。必ずしも能書の筆跡とは言えないが、特徴あるリズムと全体の調和は見事である。書には文字の造形が大切であるが、それ以上に全体の調和が求められることは、早書きの定家や定信の書を見ても明らかであろう。その根底には転写する古典作品を見ることによって得られた〝目習い〟の効果も大きい。
『更級日記』は平安時代中流貴族である菅原孝標の娘の日記である。父親の任国の上総(千葉県の中央部)から上洛(じょうらく)を目指す時からの日記で、康平元(1058)年に夫が病没して後の人生をどう生きていくかを思案しているところまでの日記である。この図版のノドの部分に「法華経五巻をとくならへと/いふを見れど人にもかたらず……」とあるように、人生の無常、末法に対する不安から信仰に救いを求める様子が綴(つづ)られている。また、左ページには「源氏のゆふがほ/宇治の大将のうき舟……」とあるように、先行する女流文学である『源氏物語』が宮廷へどのように浸透したかの一端を偲(しの)ぶこともできよう。
新たに5番目の国立博物館となった皇居三の丸尚蔵館の開館記念展「皇室のみやび―受け継ぐ美―」第3期の「近世の御所を飾った品々」(12日~5月12日)で展示中。
2024年3月17日 東京朝刊 掲載