【書の楽しみ】卓越した空間感覚

文:島谷弘幸(国立文化財機構理事長、皇居三の丸尚蔵館長)

 薄い墨で、「揀択(けんじゃく)を嫌う」と4文字を大書しているが、バランス感覚の素晴らしい書である。1字目は空海の「崔子玉座右銘」の運筆を思わせ、筆の遅速を巧みに用いた闊達(かったつ)な筆のさばきが見事である。「唯」の偏から旁(つくり)への連綿の線を筆と紙の抵抗を楽しむかのようにゆっくりと運ぶ。2文字目への連綿から「嫌」の女偏の1画目は大きな弧を描くような筆遣いで雄大さを感じさせる。この文字は直線と曲線の織り成す変化の妙と懐の広さに特徴がある。続く「揀」の手偏の2画目の筆致も魅力的である。ゆっくり湾曲させながらの筆運びから一転しての直線の鋭さ、それを受けて横にはねた筆を裏返して小気味の良い掠(かす)れた筆致で偏に続けて旁も一気に書き上げる。スキーの滑降のような滑りとスラロームのような曲線が美しい。「択」も近似する筆遣いではあるが、字中の空間構成に工夫が見られ、ゆとりのある文字の姿を形作っている。

一行書「唯嫌揀択」 夢窓疎石筆 1幅 南北朝時代 14世紀 紙本墨書 110.5㌢×33.5㌢ 梅沢記念館蔵
一行書「唯嫌揀択」 夢窓疎石筆 1幅 南北朝時代 14世紀 紙本墨書 110.5㌢×33.5㌢ 梅沢記念館蔵

 書の魅力は、線と造形である。それに加えてのバランス感覚が最大の魅力であるが、この作品には、その要素が巧みに含まれている。もとより、この作品が制作された当時は、今日でいうアートという感覚はないが、きわめて見事な文字感覚、空間感覚をもった一行書といえよう。穏やかにも、豪快にも見えるのが、この作品の奥の深さである。

 この一行書は、禅宗の第三祖である鑑智禅師、僧璨(そうさん)の作である『信心銘』四言百四十六句に所収される句である。その冒頭「至道無難、唯嫌揀択」の2句目にあたる。「揀」「択」も選ぶという意味で、「仏道に至ること(悟りの道)は難しくはない。ただ、すべてにおいてあれこれとえり好みをする執着する心、すなわちこだわりの心を捨てることができれば容易に至ることができる」といった意味である。簡単であるといいながら、あえて一行書にしたためたのがこの作品である。現在は迷いの連続の人生であるが、当時においてもこの境地に到達するのは困難であったのであろう。

 署名の「龍山木訥(ぼくとつ)」の「龍山」は天龍寺を指しており、「木訥」は夢窓疎石(1275~1351年)の別号である。筆者は鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した臨済宗の高僧である。元より来朝した一山一寧のもとで修行したが、のち、日本的な禅を教える鎌倉の万寿寺の高峰顕日(後嵯峨天皇の第二皇子)の法嗣となり、甲斐の恵林寺を開いた。後醍醐天皇の要請で上洛(じょうらく)し、南禅寺の住持、臨川寺の開山となったことでも知られる。南北朝対立時代に、足利尊氏・直義兄弟のみならず、北朝の光厳・光明両院からも篤(あつ)い帰依を受けた名僧である。天龍寺は尊氏を開基とし、夢窓を開山として創建された。この一行書は、夢窓が天龍寺に住んだ晩年の筆跡である。

 また、天龍寺庭園、西芳寺庭園(苔庭(こけにわ))をはじめとする枯山水(かれさんすい)の庭園を普及、定着させた作庭家でもあった。書におけるバランス感覚の良さは、作庭にも生かされたことがうかがえる。

2024年1月21日 東京朝刊 掲載

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