書状 西行筆1幅紙本墨書30.0㌢×47.8㌢ 平安時代12世紀国(皇居三の丸尚蔵館収蔵)

【書の楽しみ】
西行の非凡な空間感覚

文:島谷弘幸(国立文化財機構理事長、皇居三の丸尚蔵館長)

 中央のやや右から「みもすそのうたあわせ」と書き始め、改行して「のこと、じゞうどのによく」と薄い墨で書き進め、3行目はやや濃いめの墨で「申しをかれ候べし、かくほど/へ候ぬ人々まちいりて候」と墨の濃淡が見られる。おそらく、この筆者は薄めの墨が好みであったのかもしれない。磨(す)った墨をためておくところを墨池(ぼくち)と呼び、墨を磨るところを丘(おか)(陸)と呼ぶが、この手紙を書くのに際して、丘(陸)で墨を少量磨って筆に含ませ、書き進めた時に、墨池か磨った周辺部分の薄い墨を加えて書いたことがうかがわれる。墨の濃淡の変化を巧みに用いての執筆である。次第に行頭を左下がりとし、返し書きは書き出しの上に「入道殿の/御判は/よかれあし/かれ御心に」と行をやや右に傾けながら書き進める。終(しま)いには行を横転して、本紙の下に「うたのよしあしは、/さたにおよばず候、たゞ……」と続ける。読みづらいこと、この上ない。しかしながら、一見すれば、一つの作品として巧みなバランスを保っており、現代の感覚でみれば、抜群の構成となっている。時代を超越した空間構成、躍動感溢(あふ)れる筆致は見応え抜群である。

 筆者は西行(1118~90年)で、『新古今和歌集』時代の著名な歌僧である。俗名を佐藤義清(のりきよ)と称して武術に長(た)けており、鳥羽院などに仕えたが、保延6(1140)年に出家。手紙の右下にある「円位」は法名で、西行はその号である。

 彼は、文治3(1187)年の秋に自詠の和歌72首を36番とした『御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)』を作った。西行は和歌の優劣の判断を文中の返し書きの上部にある「入道殿」(藤原俊成)に依頼していた。この判はすでに終わっていた。この手紙は、それとは別に72首36番の『宮河歌合』を作り、同様に「じゞうどの」(侍従殿)すなわち藤原俊成の子の定家に判を求めていたのである。その定家の判がまだできていないので、俊成を介して催促したものである。しかしながら、定家による判が終わったのは、文治5(1189)年8月であった。俊成の加判の時期は不明であるが、この手紙は、俊成の加判から文治5年8月までの間ということになる。西行はその翌年の2月に没しているので、まさに最晩年の筆跡といえる。和歌を詠じる歌人も心を込めての詠進、判を加える歌人もそれによって和歌の理解度を判断されるとすれば真摯(しんし)に取り組むことは容易に想定できる。まさに、ある種の真剣勝負ともいえよう。平安末期の歌壇の重鎮の3人の交流を偲(しの)ぶことができる貴重な一通である。

 また、平安時代中期の優美な仮名も、平安後期になると大きな時代の流れを反映して力強い書風へと変遷していく。この手紙は依頼の手紙であるが、西行が倉卒に筆を執ったもので自然に運筆し、縦横無尽ともいえる筆致や散らしは、彼の美意識を表現したものである。その卓越したバランス感覚は注目に値する。

2023年12月17日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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