日本の書ならではの散らし書きについて、「継色紙(つぎしきし)」を題材に見よう。この図版の作品は、現在、掛幅装に仕立てられている。この1幅は、薄藍の料紙に『古今和歌集』巻第3所収の和歌「なつのよは/まだよひな/がらあけに/けり/くものいづこ/に月かく/るらん」を書写した断簡である。
断簡と記したのは、「継色紙」は料紙を二つ折りして重ね合わせ、折り目近くを糊(のり)だけで継ぎ合わせた粘葉装(でっちょうそう)の冊子本だったからだ。一部に部立ての記載がある断簡もあるが、歌人や詞書(ことばがき)などは無く、概ね2㌻分の料紙に和歌1首を散らし書きしている。それも、接着した糊継ぎのある外側に墨付きはなく、折り目の内側にあたる部分にのみ書写しており、色変わりの紙をぜいたくに用いている。また、東京国立博物館所蔵の別の1幅「こひしさに」が出典未詳であるが、それ以外は『万葉集』『古今和歌集』所収の和歌である。平安時代の撰集(せんしゅう)『続万葉集』の抄写本ではないかとする説、あるいは『古今和歌集』への編集作業中の第一次校本ではないかとする説などがある。
いずれにしても、美しい染め紙を用いた冊子に、巧みな能書の手になるものである。ほかの名物切(めいぶつぎれ)などと同様に、宮廷貴族の儀式などにおいて、贈り物として美しく雅(みや)びに調製された調度手本である。当時の宮廷においては、伝世の楽器や駿馬(しゅんめ)とともに、この調度手本が贈り物として珍重されている。
さて、強調したいのは散らし書きである。各行の書き出しをわずかにずらし、微妙に行を傾けるなどの散らしの妙は、現代の我々の感性からみても斬新である。通常は行のグループ、すなわち書の塊が扇のように集約するよう執筆することが多い。この作品では、1行目の「つ」をやや左に配置し、「のよは」をほぼ真っすぐに書いている。その結果、やや左に大きな弧を描いているかのように見え、それに応えるように2行目も書き続けている。行間も微妙に変えており、この上の句の処理は「継色紙」の中でも絶妙のバランス感覚を見せている。
また、行頭だけでなく、行末の処理も実に見事である。これらをひときわ引き立てるのが余白の美しさである。その余白は、余った白ではなく必要な空間である。井茂圭洞(いしげけいどう)先生の師である深山龍洞(みやまりゅうどう)がこの余白を〝要白〟と呼ばれていたと聞いているが、この空間があっての調和である。ほかの絵画などの芸術作品でも同様で、描かれた器物や自然の適切な配置の妙が肝要。私の好きなスポーツのフォーメーションも同様である。少々、無理があるかもしれないが、野球の王シフト、大谷シフトも、確率を考えながら、チームとして美しい守備形態を作り上げている。一人でも適切な位置に居ないとシフトは台無しになる。書の文字の配置も同様で、適切な行間、字間、天地の余白でないと納まりが悪い。
加えて、「継色紙」は染め紙に書かれた文字が美しい。繊細でありながら、リズミカルで美しいハーモニーを奏でるかのような筆線は、筆の弾力を用いて伸びやかで優美である。微妙な行間の感覚の違いは必然であり、筆線や墨の量と呼応しており、変化の中の調和を見事に表現している。散らし書きと余白は、書の鑑賞の醍醐味(だいごみ)である。
2022年9月18日 毎日新聞・東京朝刊 掲載