作品を彩る料紙の装飾と書には、さまざまな思いが込められている。華麗な装飾経には、経典を荘厳する真摯(しんし)な思いが込められている。優美な古筆には、文学と書をいっそう雅(みやび)にするために宮廷貴族の美意識を下絵や唐紙装飾によって表現している。金泥下絵の絵巻の詞書(ことばがき)は、天皇や親王などの高貴な人の染筆を際立たせ、尊重する気持ちがある。
さて、この屛風(びょうぶ)をご覧いただきたい。1扇から3扇に「はつせ山/ゆふごえ/くれて/やどゝ/へば」の和歌の1句から3句があり、続けて5扇・6扇には「秋風/ぞ/ふく」と和歌の第5句が揮毫(きごう)される。これは、『新古今和歌集』に所収される禅性法師の和歌「初瀬山夕越え暮れて宿問えば三輪の檜原に秋風ぞ吹く」(歌番号966)という和歌の4句を除く部分が揮毫されている。闊達(かったつ)で颯爽(さっそう)とした筆致で書き進めており、その書風から近衛信尹(1565~1614)の書と明らかである。「ゆふごえ」の「え」、「くれて」の「て」、さらに「ふく」の「く」など、個々に見れば造形的に違和感がある。ただ、そうした多少の字形の崩れは物ともせず書き進めており、全体の調和としては見事に仕上がっている。彼は、安土桃山から江戸時代に活躍した公卿(くぎょう)で、太政大臣前久の子。和歌・連歌とともに、書は最も優れ、一世を風靡(ふうび)した人物である。その個性的で斬新な書風は、江戸初期の三筆として尊重され、三藐(さんみゃく)院(いん)流の名で多くの人に追随された。
ところで、4句が無いのはもうお気づきであろうが、檜(ひのき)の林を中央に、4扇から6扇にかけては遠望の景色としてなだらかな白い山と霞(かすみ)に煙る林と塔が描かれている。これが4句目の「三輪の檜原に」に該当する。手前が三輪山にある鬱蒼(うっそう)とした檜の林で、遠景の雪山は初瀬山で、霞(かす)んで見えるのは長谷寺の塔であろうか。また、画面の左と上方には金泥が塗抹されている。これは、「夕越え」とあることから、西日が当たった様子を表現するものと考えられる。
こうした能書と絵描きのコラボレーションは、同時期の本阿弥光悦と俵屋宗達、烏丸光広と宗達などの例がある。いずれも絵師が先に揮毫し、能書が筆を加えるのが通例である。当時の能書と絵師という執筆者が置かれている立場を尊重してのものであろう。これも、同様で、合作の絵画を担当したのは「松林図屛風」(国宝・東京国立博物館蔵)の作者でも知られる長谷川等伯で、絵師が先に筆を執っている。その絵との調和を考えつつ、自らの感覚で書きあげた信尹の美的センスの高さには敬服させられる。潤渇によって書における遠近感があり、繊細な筆の運びやタッチの違いで絵画の遠近感も見られ、そして幽玄な世界を現出している。
この作品の二人は、信尹が大徳寺の三玄院の春屋宗園(1529~1611)を参禅の師としていたこと。そして、等伯は宗園の肖像画を描いている。こうした関係からこの合作のチャンスが生まれたのであろう。
2022年2月20日 毎日新聞・東京朝刊 掲載