国宝 紫紙金字金光明最勝王経 巻第9(左)と巻第1(右) (部分) 奈良国立博物館蔵

【書の楽しみ】
荘厳に輝く金泥写経

文:島谷弘幸(国立文化財機構理事長・九州国立博物館長)

 料紙はこげ茶色に見えるが、この色こそが古代における高貴な色である紫である。漉(す)きあげた斐紙(ひし)を紫草の根の汁に何度も何度も浸して深い紫色に染めたものである。荘厳なこの紫の美しい紙に極めて細い金泥の界線を引いて、金粉を膠(にかわ)で溶いた金泥で書写したのが紫紙金字経である。もともと、写経は装飾を施さない素紙に墨書で書くのが通例である。ところが、極楽浄土が瑠璃地で覆われ、金や銀、瑠璃などの七宝で荘厳(しょうごん)されていたと経典に説かれることから、経巻そのものを極楽浄土に見立てて荘重な雰囲気に仕上げようとしたのがこれである。まずは、高貴な紫と貴重な金との調和という古代の人々が到達した色彩感覚を味わってほしい。

 奈良時代の写経というと、一般には端正で謹厳であるというイメージがある。ところが、このように作品の一部分に焦点を当てて鑑賞すると、異なる表情が見えてくる。「尼宝」の部分をみると、尸冠(しかばねかんむり)の3画目が量感豊かに執筆されており、異様に長い。この文字だけを見れば、とてもバランスが悪い。ところが、その懐に「宝」の文字を繊細に丁寧に配置しており、結果的に収まっており、アンバランスのバランスとでも言える見事な空間感覚を見せている。また、各文字の中心線が中央で統一されていないようにも見えるが、はねや払い、文字の重心の扱いによって、全体の調和を図っている。また、膠で溶いた金粉のドロッとした質感から、切れ味鋭く小気味の良い筆のタッチの調和も絶妙である。

 次に「高山」を見てみよう。こちらは、相互にバランスも良く、造形的にも美しい。ここでは、「高」の二つの横画に注目したい。上にある1本目はキリッとした引き締まった筆遣い。下の2本目は波打つような軽妙ともいえる筆致を見せている。一つの文字に謹厳さと軽妙さを併せ持っている。また、横画よりも縦画を強調する。こうした筆の動きに注目すると、経典であることを忘れて、筆のタッチや字形の美しさを追いかけてしまう。こうした鑑賞の仕方も書の大きな楽しみである。

 奈良時代の写経生の中でも、ことに評価の高い人のみが金泥写経の書写を担当することができるが、この筆者は多様な筆致を駆使することができる人物で、単に経典を転写する域をはるかに超えている。今日でいう芸術の感性はまだ無い時代ではあるが、筆者は自らの作品としての意識をすでに持っており、この遺品は特に秀逸といえる。

 現在も金泥の文字は輝いている。じつは、執筆した直後は膠の被膜があって鈍い光である。これを猪牙(ちょき)などで磨くことで被膜を取りのぞいて、美しく輝かせている。

 この経典は天平13(741)年に聖武天皇の詔によって建立された諸国の国分寺にある五重塔に安置された。このため「国分寺経」とも呼ばれる。図版は『金光明最勝王経』巻第9と巻第1を書写した部分である。

2022年1月16日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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