国宝「白氏詩巻」(部分) 藤原行成筆 彩箋墨書 25・4㌢×265・2㌢ 東京国立博物館蔵 出典:ColBase

【書の楽しみ】優雅さと繊細さ 和様の格調美=島谷弘幸

文:島谷弘幸(国立文化財機構理事長・九州国立博物館長)

 非常に優美で流麗な書である。何より、品の良さが群を抜いている。この欄で、書の評価として形が美しいこと、筆力があること、空間構成が素晴らしいことなど、いくつかの基準を示して来た。当然ながら、全てが整うことが一番かもしれないが、私が最も大切に考えているのがこの品の良さである。言葉で表現しがたいが、人間に置き換えてみると理解しやすいかもしれない。

 『崔子玉座右銘』に「人の短を道(い)うことなかれ。己の長を説くことなかれ」の一節がある。人の悪口や自分の自慢はするな、ということ。また、天台宗の至言「忘己利他(もうこりた)」は、自分のことより、他の人のためになることをするという意である。つまりは、物事や人の調和を図るということであろう。

 書においては、一文字、一文字の存在をしっかりと把握し、上手さをひけらかすことをしないで、穏やかに全体の調和を図ることに繫(つな)がる。ただ、控えめでメリハリの無い書はつまらないので、しっかりとした運筆の強さや流れるような美しさも必要である。作為がなく、自然のままであることが大切である。この 「無為」とか「自然」は「老子」に見られる語でもあるので、古くから中国でも尊重された考え方である。

 饒舌(じょうぜつ)に説明してきたが、この図版の「白氏詩巻」は私が考える書の最高傑作の一つである。奥書から、三跡として著名で和様の書法を完成させた藤原行成(972~1027)の数え年47歳の自筆であることが明らかである。彼は、摂政・太政大臣を務めた藤原伊尹が祖父で、中古三十六歌仙の一人として知られる義孝の長男として生まれた。しかし、行成の幼時に祖父と父が相次いで亡くなったため、この名門の家もその権勢を維持することはできなかった。とはいえ、行成は外祖父・源保光の庇護(ひご)を受けて着実に成長し、後に天皇の側(そば)近くに侍して機密の文書や訴訟を扱う蔵人頭になり、権大納言にまで昇進することになった。道長に重用されたこともよく知られるので、出処進退を弁(わきま)えた能吏であったことが偲(しの)ばれる。それが、文字にも反映したものであろうか。

 日本風の和様の書の萌芽(ほうが)を示す小野道風の書法が隆盛であった時代に行成は成長したことから、その影響下にあるのは当然である。その行成の書は、やや筆を右に傾けた側筆(そくひつ)気味の筆法であり横画の角度は比較的なだらかで、転折の部分は曲線的な運筆を用いている。しかし、均整を取ることだけに終始したのではないことは、図版の部分でもよく理解できる。穏やかな行書であるが、「未」の文字では縦画を湾曲させて斜めに運筆し、4画目、5画目の点の打ち方でバランスを取っている。また、各文字の起筆も穏やかに見えるが、きっちりと筆遣いを見せており、線が美しくて張りがある。墨量の変化をつけつつ、リズミカルに筆を運ぶ。道風書法の踏襲だけでなく、自らの美意識を加え、優雅さと繊細さを持ち、瀟洒(しょうしゃ)で明るい。これこそが完成された和様の書風の特徴である。

2021年8月15日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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