タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」2013年、広島県立美術館≪ひと≫2012年、木にアクリル絵の具/被爆したガラス瓶、広島平和記念資料館蔵 写真:畠山直哉、Courtesy of Taka Ishii Gallery

 今夏、芸術祭「東京ビエンナーレ」内のプロジェクト「Praying for Tokyo 東京に祈る」で、東京大空襲にまつわる作品「わたしは生きた」を発表した美術家、内藤礼さん(59)。戦争に関わる作品は今回が三つ目。初めて向き合ったのは、故郷・広島市にある広島県立美術館での展示「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」(2013年)だった。 

 多数の作家が出品する会場のなかで、異質の空気が流れていた。暗い室内の奥にある展示台。明かりが弧を描くようにつるされ、その下に原爆の熱線で形を失った瓶が並ぶ。そばには、木製のごく小さな彫刻「ひと」が寄り添うように立っていて、緊張感とぬくもりが同時に満ちていた。

 当時、人々は水を欲して得られなかった。だから、今の時代のガラス瓶を一つ置いて水を注ぎ、花を生けた。「水は命そのもの。その水とつながった花は、亡くなった人の代わりに生を伝えているのです」。被爆瓶は原爆資料館の収蔵品だ。

 内藤さんは伊ベネチア・ビエンナーレに参加するなど国際的にも活躍してきた。だが、「作家活動を始めて何十年も、原爆をアートのモチーフにすることへの抵抗があった」と話す。  それが、「平和」や「再生」をテーマにした展覧会に声がかかった。「時が来たような気がしました。ただ、普段だったら少しでもよい作品を、とシンプルに思うわけだけど、そうではなく慰霊として向き合う、それ以外のことは考えてはいけないと思ったのです」

 平和記念公園の近くにある産科で生まれ、広島市内中心部で育った。思い出すのは、20代の終わりに県外のいとこを案内して、久しぶりに原爆資料館を訪れたときのこと。小学生のときに体験した「底知れぬ恐ろしさ」はなくなっていたが、奇妙な光景も目にした。  旧陸軍被服支廠の、原爆の爆風でゆがんだ鉄扉。「自宅があった旭町から被服支廠の横を通って、祖父母の家に行くことがよくあって。反り返ってパタパタしているから、危ないな、落ちてきたらどうしようと思っていました」。日常の一部が、原爆の痕跡だったと知ったときの落ち着かない気持ちが残っている。

 常に「原爆」は身近なところにあった。しかし、隅々までくっきりと輪郭を現していたわけではなかった。

 中高一貫の女子校では、被爆した先生が自分の体験を話してくれた。原爆病院に行って賛美歌を歌ったこともある。漫画『はだしのゲン』を回し読みし、井伏鱒二の小説『黒い雨』の感想文を書いた。「でも、親はあんまり話をしない。友達同士も、しない。東京に来て、新聞記事で結婚や就職であった生々しい差別体験を読み、衝撃を受けました。家でも学校でも、触れることはなかったからです」

 今になれば、依然〝そういう時代〟だったのだと思う。8年前の展示をきっかけに、続けざまに同年代の知人たちの口から「家族が被爆していた」ということを聞いた。「実際に『被爆2世』という言葉を聞いたのは、初めてだったのです。そのくらい話をしない。つくづく、そうやってみんなが守りあって生きてきたのだと思いました」。父も「黒い雨」が降った地域の出身だが、ほとんど体験を話したことはなかった。その父は、広島の展示を3度も見に来てくれたという。

 「ひと」はわずか数センチの大きさだが、内藤さんは「他のものをつくるときとは、異なる感情がわき上がる」という。「『人にとって、人は人しかいない』と思うのです。人の代わりになるものはいないんだよ、と」。広島で、被爆瓶のそばに立つ「ひと」は決意みたいなものを秘めて、こちらを見返していたように見えた。

2021年8月19日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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