空蓮房で、見る人を見返す内藤礼さんの「ひと」=畠山直哉さん撮影

 落ち着かない東京の夏にあって、土地の歴史と見る人の心の内を照らす作品が展示されている。美術家、内藤礼さん(59)が東京大空襲に思いをはせた、「わたしは生きた」。作品がある三つの場所は、街とは対照的に静けさに満ちている。

 台東区蔵前にある寺、長応院の一角に、小さなギャラリー「空蓮房(くうれんぼう)」がある。鑑賞者は靴を脱ぎ、1人で室内に入る。照明はなく、心もとなさにとらわれるが、空間に身を浸すうち目が慣れてくる。明かり取りから差し込む光で、木製の小さな彫刻、「ひと」がいると分かったときの驚き。しばらく「ひと」と時間を過ごし、外に出ると夏の湿気が身を包む。

 近くの墓地にあるのは、東京大空襲の犠牲者を慰霊する親子の地蔵。空襲から10年後の3月10日に、地元の町会が建てたものだ。長応院の住職で空蓮房を主宰する谷口昌良さん(61)は子供のころ、先々代から76年前の空襲の話を聞いたことがあるという。「門前に、黒こげの死体が山積みになっていたそうです」

 地蔵の台座には死者の名前や年齢が刻まれている。ここに、内藤さんはなみなみと水で満たしたガラス瓶を置いた。元々あった、花柄の湯飲み茶わんのそばに。

 「作品」として創作するのとは別の心持ちだった。「これは亡くなった人へのお水でもあるけど、お供えしているお水にならったような気持ちでもある。自分としては、これ以上のことはありえないと思いました」 

 空蓮房の「ひと」と、「応答するように」立つのが、JR御徒町駅そばの黒門小学校で、地下防空壕(ごう)にたたずむ「ひと」だ。約1・5cmの小さな体を、通気口から届く光に向けて立っている。展示は非公開だが、近くまで寄ってみると、かしましいセミの鳴き声と、都会のざわめきが学校を包んでいた。光の側は、日常の世界。そちらへ戻りたいと暗い地下で願った人たちの姿を想像したと内藤さんは語る。

 親子地蔵が悼むのは死者。空蓮房には今を生きる私たちが入り、堅牢(けんろう)な防空壕では命を救われた人たちがいただろう。「亡くなった人も、直前までは生きていたと気づいた。三つの『わたしは生きた』だけれど、中心にあるのは慰霊碑。亡くなった人たちが『わたしは生きた』と言っている。そう思いたいのです」

 これらの作品は、芸術祭「東京ビエンナーレ」(9月5日まで)のうちのプロジェクト「Praying for Tokyo 東京に祈る」の一環だ。キュレーションを務めたのは、芸術祭総合ディレクターの一人、小池一子さん(85)。「無印良品」の創設に携わり、多くの現代美術作家を紹介してきた小池さん自身の思いが、色濃く反映されている。

 東京・世田谷で育った小池さんは戦火が激しくなると、静岡に縁故疎開した。「東京の子たちはどうしているんだろう、といつも思っていました」。東京を襲った帰りの爆撃機が、静岡にも飛来することがあった。「防空壕に逃げ込んだ友人たちは、どんなに不安だったか。暗闇にいた子供たちのことを、内藤さんにも知ってもらいたかったし、東京が重ねた時間を原点に据えたいと思ったのです」

 空蓮房で展示した「ひと」を、住職の谷口さんは普段、小さな厨子(ずし)の中に置いている。後ろには、供養する人がいなくなった死者の位牌(いはい)が並んでいる。東日本大震災で多くの人が亡くなった後に、作り始めたという内藤さんの「ひと」。谷口さんは「人という生き物は何か、人の営みとは何か改めて考えるようになった」と振り返る。「東京に祈る、という気持ちを、小池さんは内藤さんに託したのでしょう」

INFORMATION

戦後76年の表現者たち

第二次世界大戦終結から76年。日本人の記憶は薄れていくが、世界中で、国家、民族、宗教などを巡る争いは絶えない。その中で「戦争」を見つめ表現活動をする人々に話を聞く。

2021年8月12日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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