◇松方と児島、二人の願い
現在、東京・上野公園内の国立西洋美術館において、「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問―現代美術家たちへの問いかけ」と題する展覧会が開催されている。
図録では最初に、田中正之国立西洋美術館長のポリフォニック(多声的)な美術館の在り方についての解釈学的企図説明に続いて、本展の企画者である新藤淳主任研究員による国立西洋美術館収蔵品の基礎となる松方コレクション成立の歴史が、美術館設立の過程とともに語られる。
もともと川崎造船所社長・松方幸次郎(1866~1950年)が16年から約10年間収集活動に励んだのは、欧米の優れた絵画、特に油絵作品の実物を日本の若い画家たちに見せたいという意図からであった。そのため、松方は当初から収集品を展示する美術館を設立することを考えていた。彼は、「共楽美術館」と名付けたその美術館の設計を友人の画家、フランク・ブラングィンに依頼し、東京・麻布の私有地に敷地を確保している。
しかしこの計画は、二つの思いがけない事情によって、実現できなくなった。一つは23年の関東大震災復興のため奢侈(しゃし)税を設けて、絵画輸入に高い税金がかけられるようになったからである。それらに加えて、経済恐慌によって松方は28年川崎造船所社長を辞任、私財を売り立てることとなった。野上弥生子が自伝的小説『真知子』の中で、「M―」という収集家の作品売り立て会で、セガンティーニなどの本物を見て感激したと語っているのは、この時の売り立てで作品を実見したからである。
さらに付け加えれば、ちょうど同じ頃、画家、児島虎次郎がフランス、ベルギーに留学して現地で西洋絵画を学んでいる。児島は、留学を終えて帰国するにあたり、留学を援助した岡山県倉敷市の実業家・大原孫三郎に対し、「日本の仲間の画家のために」西洋絵画の本物を輸入したいと申し出て、アマンジャンの作品を1点持ち帰った。
その作品の評判が高かったので、孫三郎は改めて西洋絵画収集のために児島を派遣して収集にあたらせた。その結果、もしかしたら松方コレクションに含まれていたかもしれないモネやマティスやゴーギャンの作品が日本にもたらされ、現在倉敷の大原美術館に収蔵されることになったのである。
話を今回の国立西洋美術館の展覧会に戻すと、展示では、第二次大戦後、敵国資産として差し押さえられた松方コレクションが改めてフランスから日本に「寄贈返還」されて現在の西洋美術館の中心となった経緯、それに伴ってフランスの建築家ル・コルビュジエ設計の美術館が建てられる経緯が説明される。
それに続いて、このようにして誕生した国立西洋美術館が65年の存在によって、以降の美術家、写真家らにどのような役割を果たしたかを、飯山由貴、杉戸洋、内藤礼、中林忠良、長島有里枝などの作品を展示して問いかける。加えて、図録では作家へのインタビューと作品紹介、そして最後に美術館の在り方についてのいくつかの「論考」が提示される。美術館というものが文化施設としてどのような活動をしてきたか、そしてこれからどのような文化創造に参画すべきかを考えさせる充実した内容の企画展である。12日まで。
2024年5月9日 毎日新聞・東京夕刊 掲載