鐘一ツうれぬ日はなし江戸の春
蕉門(芭蕉の弟子)十哲の一人に数えられる宝井其角(たからいきかく)の名吟である。時代背景は寛文(17世紀)、宝永(18世紀)にわたり、戦国の世はすでに遠い昔となったいわゆる「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」時代の賑(にぎ)わいがそこから浮かび上がってくる。
句意は、ふだんめったに需要のない寺の梵鐘(ぼんしょう)のようなものまで売れない日はない商業都市・江戸の繁栄を詠んだものである。
事実270年に及ぶこの平和の時代に、商業とともに豊かな文化が生み出された。そのことは、まったく同時代の西欧諸国においてカトリックとプロテスタントの血なまぐさい抗争をはじめ、宗教戦争、農民戦争、ブルボン家とハプスブルク家との領国争いなどによって一日として剣戟(けんげき)の響きが途絶えることのなかった歴史を思い出してみれば、まさしく思い半ばに過ぎると言ってよいであろう。
現在、東京・上野公園内の東京芸術大学大学美術館で開催されている「大吉原展」は、この平和の時代の江戸文化の成果を、浮世絵(歌麿、国貞、英泉、広重、北斎など)、屛風(びょうぶ)(吉原風俗図屛風など)、風俗図(画巻など)、写真絵はがき、錦絵、衣裳(いしょう)人形、小袖、画帖(がちょう)、それに重要文化財にも指定されている高橋由一の油彩画「花魁(おいらん)」、木村荘八が墨書した樋口一葉の小説『たけくらべ』、鏑木清方の描いた見事な「一葉女史の墓」、「一葉」の肖像画など、多数の図像表現を取りそろえて、吉原の文化史に多彩に迫っている。絵画表現としては、ほぼ同時代にパリの娼婦(しょうふ)たちの世界を巧みに描き出した画家エドガー・ドガやエドゥアール・マネの高級娼婦(浮かれ女)を題材とした人物像と肩を並べることのできる十分な出来栄えを示している。
図録の冒頭には、田中優子法政大学名誉教授の「吉原という『別世』」と題する優れた論文が収められていて、この展覧会はこれまで「日本文化」として扱われてこなかった江戸文化を改めて共有する試みであることが強調され、「権力と文化の関係を考え、権威というものを相対化することになる」という捉え方が、「大吉原展」を歴史的説明を超えた「文化的企画」として明確な位置づけを示した。つまりこの展覧会は、現実とは無関係の、それこそ「別世」のあり方を造形した作品を提示するもので、それゆえに、長い歴史に培われた日本人の伝統的美意識の豊かな成果を、絵画、工芸、染織、錦絵、屛風、人物表現などの多彩多様な美的表現によって目に見えるかたちで展示してみせた美術展にほかならないと言うべきであろう。
展覧会としては、228点に及ぶ大小さまざまな作品群を、「吉原の歴史」「吉原の町」「出版界と文芸サロン」「暮らしと芸事」「吉原の一年」と五つの観点で構成し、19世紀末のジャポニスムに関心を寄せたフランスの批評家を驚かせた生活そのものが芸術(美的表現)であるという日本的美意識を十分に伝えてくれる、極めて優れた展覧会と言うべきであろう。5月19日まで。
2024年4月11日 毎日新聞・東京夕刊 掲載