織田有楽斎坐像 一軀 江戸時代 17世紀 正伝永源院(通期展示)

【目は語る】3月東京・サントリー美術館「大名茶人 織田有楽斎」人を結びつけた美意識

文:高階秀爾(たかしなしゅうじ=東大名誉教授、美術評論家)

日本美術

 動乱の戦国時代に生まれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人に仕え、元和偃武(えんぶ)の平和の時代には茶人として茶の湯を深く愛好し、茶の湯を通じて大名、高僧、町衆などとわけへだてなく交流した茶人が、織田長益有楽斎(うらくさい)である。

 織田姓であることから明らかなように、織田家の出身、信長の弟である。本能寺の変で信長が討たれた時、血路を開いて逃げ落ち、大坂冬の陣、夏の陣では、豊臣・徳川両家の和解にも奔走したが、結局徳川家に仕え、致仕後、「有楽斎」と名乗って茶人として豊かな生涯を送った。

 有楽斎が残した茶の芸術として重要なものに、国宝の茶室「如庵」がある。京都・山崎、妙喜庵にある千利休好みの「待庵」、京都・大徳寺龍光院にある小堀遠州好みの「密庵」とともに、国宝茶席三名席のひとつとして名高い。現在では「如庵」は愛知県犬山市の有楽苑に、旧正伝院書院とともに所在しているが、もともとは正伝院内に建てられたものである。

 現在、東京・六本木の東京ミッドタウンにあるサントリー美術館において開催されている「大名茶人 織田有楽斎」展には、富岡鉄斎の描いた「如庵図」(正伝永源院蔵)が出品されている。そこには、如庵とともに、有楽斎の墓と見られる塔も描かれていて、かつての如庵のたたずまいがよくうかがわれる。

 明治期の雑誌や画家の日記などには、この如庵が「有楽館」と称されて、博覧会場や画家たちの作品展示会場に利用され、現在の正伝永源院の周辺がいわば文化サロンとして活(い)かされていたことが記されている。武人であるとともに、それ以上に文化人であった有楽斎の好みが十分に活かされていたと言ってよいであろう。

 展覧会場では、永源院宮殿の東側、北側、西側3方向を連続して飾る狩野山楽筆(とされる)「蓮鷺図襖」が鮮やかな彩色とリズミカルな構成で、見る者の目を楽しませる。連続する画面をたどっていくと、そこに季節の移り変わりとともに様相を変える自然の姿を鑑賞する日本人の美意識が、味わい深く表現されている

 狩野山楽筆とされる障壁画として、他に4面の「禅宗祖師図」がある。内容は、禅宗祖師が悟りを開いた契機を描いた禅機図とも言うべきもので、人物や樹木の表現には狩野山楽の描法の特色がうかがわれる。

 茶人との関わり合いとしては、千利休、武野紹鷗、織田道八などの茶杓(ちゃしゃく)が有楽斎の手になるものと並んで展示されているのが興味深いが、それと同時に茶碗(ちゃわん)、茶入(ちゃいれ)などの逸品が提示されているのが目を引く。例えば重要美術品に指定されている朝鮮王朝時代の「大井戸茶碗 有楽井戸」(東京国立博物館蔵)、南宋時代の「唐物文琳茶入 銘 玉垣」(遠山記念館蔵)、「黒楽『正傳院』字茶碗」(正伝永源院蔵)などである。

 これらの作品を眺めていると、有楽斎をめぐるさまざまな人間関係が浮かび上がってきて、茶の湯というものが、多彩な人間を同好の士として結びつけ、仲間意識を育て上げるものであることが自然と理解される。美意識を通じた人間同士の結びつきをよく物語るものと言ってよいであろう。展示替えあり。24日まで。

2024年3月14日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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