武蔵野図屛風 六曲一双 江戸時代(17世紀)、サントリー美術館(上・屏風左側、下・屏風右側)

【目は語る】7月「歌枕 あなたの知らない心の風景」展文学が耕す風景のイメージ

文:高階秀爾(たかしな・しゅうじ)(大原美術館館長、美術評論家)

日本美術

 「歌枕」とは何か。一般的に定義すれば、「和歌に詠み込まれる歌語。また、それを解説した手引書。歌題、名所、枕詞(ことば)、序詞などを含む」(『精選版 日本国語大辞典』)ということになるだろう。

 例えば「八橋」という歌枕がある。在原業平(とされる男性)が東下りの途次、三河(愛知県)で川がいくつにも分流していてそれぞれ橋が架けられている「八橋」を訪れた時、ちょうど燕子花(かきつばた)が満開であったので「からころも着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」(五七五七七の頭文字をつなげるとカキツバタとなる)と詠んで都を偲(しの)んだという『伊勢物語』の故事に由来する歌枕である。

 このようにして一旦歌枕が成立すると、業平の歌に惹(ひ)かれて後世多くの歌人たちが八橋を訪れ、そこでまた歌を詠む。歌枕の旅が広く流行し、新たな歌を生み出す。芭蕉の『奥の細道』など、まさしく歌枕の旅にほかならない。時には、わざわざ現地を訪れることなく、歌枕を通してその風景、景物を思い描くことさえ稀(まれ)ではない。

 現在、東京都港区赤坂のサントリー美術館で開かれている「歌枕 あなたの知らない心の風景」展は、数多い全国の主要な歌枕に触発された美術工芸の優品を集めた見応えのある展覧会である(8月28日まで。途中展示替えあり)。

 例えば、萩(はぎ)、菊、すすき、桔梗(ききょう)など秋の草花を画面前景に装飾的に配置し、左隻上部に金雲の彼方(かなた)に悠然とそびえる富士山、右隻には思いもかけず草花の間に埋もれる満月を描いた六曲一双の「武蔵野図屛風(びょうぶ)」(8月3日から展示)、これは「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」に基づく歌枕作品である。

 「八橋」については、『伊勢物語』の各段を描き出した色紙を屛風に貼り散らした「伊勢物語色紙貼交屛風」の右隻第三扇に、業平と旅の仲間たちが、八橋を背景にひと休みしている場面の色紙が貼られている。

 それに対し、「八橋蒔絵硯箱」(7月27日より展示)では、人物像を完全に排除して、八橋と何よりも咲き誇る燕子花をクローズアップして見せたデザイン感覚が素晴らしい。

 また、「八橋蒔絵扇形紅板」(25日まで展示)では、化粧用の紅を収めた携帯用コンパクトの表面を、水流、八橋とともに、風に乱れる燕子花の華やかな動きで飾り立てた表現は、小品であるだけに、見る者にむしろ、愛らしさを感じさせる。日本人の美意識の表れと言ってもよいであろう。

八橋蒔絵扇形紅板 一合 江戸時代(19世紀)、サントリー美術館

 展覧会全体の構成は第一章「歌枕の世界」に続いて、「歌枕の成立」「描かれた歌枕」「旅と歌枕」「暮らしに息づく歌枕」の全五章から成る。それぞれの章に関連作品が割り振られているわけだが、全体として「生活の中の美」を活動理念として掲げる美術館の実力が全開した好企画展である。

 美術と文学の両面にわたる今回の展覧会では、見る者の手助けとして、各分野の詳細な説明が欠かせない。今回その役割を担ったのは、展覧会図録である。歌枕とは何かという総論に続いて、参考図版も含めた出品作それぞれについての解説、それに加えて旧国制による歌枕地図、歌枕一覧、参考文献と至れり尽くせりの内容である。この企画を推進した柴橋大典学芸員をはじめ、美術館学芸員諸氏に、心からの敬意を送りたい。

2022年7月14日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

シェアする