「廻(まわ)れば大門(おおもん)の見かへり柳いと長けれど、おはぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取る如(ごと)く……」
樋口一葉の名作『たけくらべ』の冒頭。頃は明治中期、新吉原界隈(かいわい)の下町風俗を舞台に、やがて遊女となる運命の美登利と遊び仲間の龍華寺の少年信如との淡い思慕の情を軸に、大人になりかけた子供たちの世界を哀愁をこめて描き出した『たけくらべ』は、当時熱狂的に迎えられ、読者のなかには何度も読み返して一葉の文章を諳(そら)んじる者も少なくなかったという。
その一葉愛好家のひとりに、画家鏑木(かぶらき)清方(1878~1972年)がいた。年齢から言えば一葉より6歳年少、ほとんど同時代人である。幕末の戯作者條野採菊(さいぎく)の息子清方は、まず挿絵画家として水野年方に入門、優れた風俗描写と巧みな画技で頭角を現し、1901(明治34)年、仲間と烏合(うごう)会を結成、本格的に日本画を志すようになる。この時期、一葉はすでにこの世にはいない。
雑誌『文学界』に分載発表された『たけくらべ』が完結したのは、1896(明治29)年1月、その同じ年の11月、一葉は結核のため世を去った。享年24。
その6年後、清方は、同じく一葉文学のファンであった泉鏡花の文章に触発されて一葉の墓を訪れ、その時のスケッチに基づいて「一葉女史の墓」を制作、同年の烏合会展に出品した(この年は一葉の七回忌にあたる)。だがその作品は単なる墓地の風景ではない。比較的小ぶりの墓石にもたれかかるように、ひとりの若い娘が描かれている。袖に大切そうに小さな水仙の花を抱いているところから、娘は『たけくらべ』の美登利にほかならないと知れる。それとなく別れを告げに来た信如が、格子門に「水仙の作り花」を差し入れただけで立ち去るというのが『たけくらべ』の幕切れだからである。
清方は、一葉の小説ではそれと明示されていない若い2人の心情の世界、愛とも恋とも明確に規定しがたい「心の思い」を、虚構の人物を現実に甦(よみがえ)らせるという大胆な造り方で、絵画作品として見事に表現してみせた。その点に、清方芸術独自の達成がある。清方自身後に、この作品について「私生涯の制作の水上となるのではあるまいか」(『こしかたの記』)と述懐している。
実際清方は、一葉のみならず、尾崎紅葉、泉鏡花などの文学作品や歌舞伎芝居、『雨月物語』などの物語世界を好んで取り上げ、そこに独特の創造力を飛翔(ひしょう)させた。少年時代の下町の生活情景や「小説家と挿絵画家」のような日常生活の一こまを描き出した作品群の場合も同様である。それらはいわば絵日記だが、ただの絵日記ではなく、追憶の絵日記であり、思い出の記録にほかならない。
敬愛する一葉については、清方は1940(昭和15)年、見事な似姿を描いた。それは一見肖像画とも見えるが、清方は一葉と会ったことはない。強いて言えば、憧憬(しょうけい)にも似た心情の肖像と言うべきであろう。
とすれば、近代日本画の最高峰と言うべき「築地明石町」も、単に卓抜な美人画とのみ規定するわけにはいかない。それは何よりも、清方自身が生きた時代と土地に対する深い愛情の思いが生み出した女性像なのである。
現在、東京都千代田区北の丸公園の東京国立近代美術館で開催されている「没後50年 鏑木清方展」は、豊麗多彩な清方芸術の魅力をたっぷり味わうことのできる展覧会として特筆したい(5月8日まで。次いで京都国立近代美術館で27日~7月10日開催。「一葉女史の墓」は東京会場は展示終了。京都会場は5月27日~6月12日展示)。
2022年4月14日 毎日新聞・東京夕刊 掲載