夫婦別姓を認めない民法の規定を合憲とした最高裁の判断はあまり話題にならず、日本の婚姻制度や姓名の慣習を再考するよい機会を逃したようだ。
工芸作家も特別な号より本名ベースの時代である。しばしば卒業制作がキャリアのスタートとなる昨今、若手はまず本名で世に出ていく。その後、結婚すると女性工芸家は男性の姓で作家活動するケースが、かつては多かった。
私の学芸員時代、染織と金工の代表的な作家7人を選んだ展覧会の企画書を書いた折、上司から「この2人は夫婦か? どちらか代えては」と言われたことがある。事務系の上司は2人を知っていたわけではないが、7人中、同じ姓が二つあれば想像はつく。業界では2人が夫妻であることは周知だが、同じ姓ゆえに一般市民にも夫婦関係が分かりやすいことが問題なのである。「公平性」を重視する公立美術館の行政マンらしい発想だ。
しかし蠟染(ろうぞめ)に直線性や型を導入し現代の雅(みやび)を築いた福本繁樹と類似の蠟染作家も、藍染(あいぞめ)を探究し支持体との関係の中で幽玄な世界を築いた福本潮子に代わる藍染作家も見当たらない。企画のテーマである工芸性や国際性を語る上でも2人は必須、「代替不可能」と押し切った。
実力ある作家同士が婚姻により損するケースは恐らくゼロではない。もちろん、名前のためだけではないが、例えば同じ姓だと、夫が受賞した賞を、作風は違っても妻が受賞しにくい場合がある。選ぶ側には、一人でも多くの「多様な」背景の人に与えたいという意識も働く。だが「家」単位で賞を出すわけではない。より本質的で高度な公平性に立つことも必要であろう。
昨今の若手女性工芸家は結婚後も旧姓で活動を続けることが多くなった。あるいは1973年生まれの漆芸家・笹井史恵のように、婚姻時、自身の姓を選び、夫が旧姓で仕事をする例もある。
一方、代々続く工芸家の家では、女性たちの意思により、女性作家が男性名で代を継ぐケースも現れてきた。男系世襲も変わりつつある。女性たちはそれぞれ陶芸家「四代徳田八十吉」や金工家「十五代鈴木盛久」を生きていくことを選んだ。名前の公共性は作家だけではない。銘を持たない職人もまた、自身の名のもとに誇りをもって責任を果たし、報酬を得る。
名前とは個人のアイデンティティーであると同時に、個人が公的に社会とつながる回路である。婚姻制度も姓の選択も、その回路を妨げず、個人が最もその人らしく社会に生きることを助けるものであってほしい。
2021年9月12日 毎日新聞・東京朝刊 掲載