森野泰明が滞米時に制作した「Work」(1968年)

【工芸の地平から】戦後陶芸の国際化=外舘和子

文:外舘和子(とだて・かずこ)(多摩美術大学教授)

工芸

 連日オリンピック・パラリンピックの話題が尽きないが、前回東京で開催された1964年、陶芸界では〝もう一つのオリンピック〟があった。19カ国が参加した「現代国際陶芸展」である。海外と国内から約100点ずつを並べた同展は、東京・京橋の国立美術館(現・東京国立近代美術館)などが主催した日本初の国際陶芸展であり、「日本陶芸の敗北」「日本には反省の機会」などとメディアで評され、特に窯業地の陶芸家は欧米の陶芸に衝撃を受けたようである。

 だが本当に当時の日本の陶芸が国際的にみて旧態依然としたものだったのか。改めて図録を見ると、確かにアメリカ、イタリア、スウェーデンの作品の一部に奔放な造形も見られるが、日本も京都などの前衛陶芸家たちが力のこもったオブジェを出しており、決して日本が質的に見劣りする内容ではない。衝撃の理由はむしろ日本人が海外の陶芸をそれまで殆(ほとん)ど知らなかったが故の〝新鮮さ〟によるのではなかったか。

 実際、同展以前から外国人は日本の陶芸の多様な魅力に関心を抱いており、50年代には日米の本格交流が始まっている。アメリカ現代陶芸を代表するピーター・ヴォーコスは50年代に濱田(はまだ)庄司の実演をアメリカで目にして刺激を受けたと語っており、金重陶陽に弟子入りしたJ・B・ブランクをはじめ50年代以降、外国人が次々に備前の陶芸家に師事している。70年代から80年代に弟子入りした外国人の一部は現在も備前で陶芸家として活躍中だ。土と直接格闘する醍醐味(だいごみ)や、窯変など焼成を経てこそ獲得される陶芸ならではの表現は、外国人作家を大いに触発したのである。

 また前述の国際陶芸展に先立つ62年、京都の森野泰明はシカゴ大学で陶芸を教え、女子学生の多さに後の日本を予見し、63年と68年にはアメリカで意欲的なオブジェによる個展を開催している。71年には萩の三輪龍気生(龍作)が京都国立近代美術館の国際陶芸展に便器を擬人化した作品を陳列、同作品は76年にその奇抜さから東ドイツの展覧会で展示拒否された経緯があるが、今日、萩や東京の美術館でも展示され、女子高生らには「可愛い」と言われ好評である。戦後、日本の陶芸家も果敢に海外と渡り合い、現代陶芸を牽引(けんいん)してきたのである。

 そうした各地における多様化、国際化の実情を、作家だけでなく一般の鑑賞者にも気づかせるきっかけとなるならば、陶芸や芸術の〝オリンピック〟も確かに意味がある。そして次に開催するなら、欧米や南アフリカだけでなく、その他のアジア諸国も含まれるはずだ。

2021年7月11日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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