林康夫「雲」(左端)=京都国立近代美術館の「走泥社再考」展(既に終了)で7月18日、山田夢留撮影

【KOGEI!】
戦後の陶芸オブジェの本質

文:外舘和子(とだて・かずこ=多摩美術大学教授)

工芸

 「走泥社(そうでいしゃ)再考 前衛陶芸が生まれた時代」展が京都から岐阜、岡山、東京へ巡回中だ。走泥社は50年の歴史上さまざまな作家が参加したが、見る機会の少ない創立会員・叶哲夫の壺(つぼ)なども並ぶ充実した展覧会である。ただし走泥社に先立ち前衛陶芸に取り組んだ四耕会の出品作を走泥社の出品作と勘違いした鑑賞者もいたようだ。「前衛陶芸が生まれた時代」を展覧会名の頭に掲げていれば、よりニュートラルに前衛陶芸の歩みが認識できたであろう。

 走泥社は八木一夫の「オブジェ焼」で知られ、約20年前までは1954年10月の走泥社展出品作「ザムザ氏の散歩」が最初のオブジェとされてきた。しかし走泥社の作家では鈴木治の「作品」がこれに先立ち同年5月の第1回朝日新人展に出品されており、さらに遡(さかのぼ)れば四耕会展で48年に林康夫が「雲」を発表している。四耕会の作家では岡本素六や鈴木康之も49年にオブジェを制作した。いずれも、バイオモルフィック(生命形態的)な造形そのもので自立する作品である。

 40年代後半の四耕会の陶芸オブジェはその抽象性や成形手法に特徴がある。例えば林の「雲」は、空の雲を見てその形をなぞったものではなく、漠とした人のようなイメージを抱き、土を手捻(てびね)りしながら成形し、最終的にそのムクムクと湧き上がるような有機的、抽象的な形が雲のようにも見えたので「雲」と名付けたというもの。

 戦後「オブジェ」という語を陶芸界で使い始めた例も49年の四耕会案内状に見られる。言葉の由来は西洋のダダイストやシュルレアリストの美術オブジェで、既存のモノの意外な組み合わせ等で別次元の物体へと変換する表現だが、シュルレアリスムの絵画では、無意識を視覚化するオートマティスムの手法がある。四耕会の陶芸オブジェはいわばそのオートマティスムの抽象性とリンクする。すなわち綿密な図面や計画に拠(よ)らず、ごく大まかなイメージを起点に、土を触りながら立ち現れてくる形を見定めるという創造の手法である。もちろん、陶芸は絵画より制約が大きいが、この姿勢はその後、陶芸表現を大いに拡張していった。

 陶芸オブジェを大きく「器でないもの」と捉える事もあるが、動物や人を題材にした具象的な陶の造形は戦前から存在する。例えば沼田一雅は昭和初期、新文展の工芸部門に陶のラクダを出品し、金重陶陽や三輪休和は獅子などを陶で制作した。八木一夫の父一艸(いっそう)も鹿の置物などを制作している。さらに江戸時代、京都や備前では具象のやきものが一つのピークを迎えていた。

 つまり戦後の新たな造形表現の起点としての陶芸オブジェの本質は、抽象性、半抽象性にある。無論、具象と抽象の境界は必ずしも明確ではなく、全ての表現は作家のフィルターを通して「抽象化」されているともいえる。特に今日の具象的陶芸は元のモチーフを大きく変換、デフォルメしたものもある。しかし戦後の陶芸オブジェは、制作姿勢と結びついた大胆な抽象性こそが陶芸家らの造形本能を刺激したのであり、それがその後の具象的陶芸の造形性をも鍛えていったのである。

2023年11月12日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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