東京・調布のアトリエで色を試す中村光哉=遺族提供
東京・調布のアトリエで色を試す中村光哉=遺族提供

【KOGEI!】
染色の前衛と中村一門

文:外舘和子(とだて・かずこ=多摩美術大学教授)

工芸

 今秋、水戸市立博物館で開催される染色家・中村光哉(こうや)(1922~2002年)の展覧会(10月21日~11月26日)の図録テキストを書くため、新宿の二科会事務局で昔の二科展目録を調査した。

 今日、二科展のイメージは、芸能人も出品する華やかな団体展、であろうか。しかし1914年創設の当時、二科展は官展の権威主義やアカデミズムに対抗する気鋭の洋画家たちが出品する日本の本格的な前衛的芸術現場の一つであった。

 その勢いは戦後の46年に開催された第31回展にも窺(うかが)われる。この時二科展に工芸部が新設された。創立会員は意外にも勅使河原蒼風や小原豊雲ら前衛的な華道家や千宗室のような茶人だが、実際に作品を出品したのは陶芸や染色など工芸の作家たちである。染色では中村光哉が工芸部開設の年から出品し、翌年には父で友禅作家の中村勝馬や、勝馬の弟子・山田貢も出品している。3人は師弟関係のある中村一門だが、各自の出品内容が興味深い。

 出品目録に工芸の作品図版は必ずしも掲載されていないものの、作品名から形状を推察できる。例えば中村光哉は「壁体試作」。彼は当時、屛風(びょうぶ)の制作を始めているので、これも屛風かパネルの類いと思われるが、「試作」という題名の付け方にこの作家の実験的精神が窺われる。勝馬は例えば「キモノA」などキモノや羽織を出品した。また山田は「染色キモノ」のほか、卓上に敷く布であろうか、「卓布」というタイトルも見られる。つまり各々(おのおの)の作家が、自身の好きな形状で、表現したい世界に自由に取り組み、発表しているのである。現在96歳の二科会名誉理事によれば、かの東郷青児も勝馬らの出品を望んだという。

 戦後の二科展はキモノ、屛風、生活工芸まで染色のさまざまな形状における芸術性を受け入れ、意欲ある染色家たちは、各々が望む形状で「作家性」を主張した。洋画家たちにとっては作風の主張がアバンギャルドの表明であったが、染色作家にとっては、作風の主張と共に、形状の多様性を認めさせることも「前衛」であった。

 残念ながら二科展工芸部は51年を最後に消失し、一方で「商業美術部」や「漫画部」が新設されていく。一種の大衆化路線のようだが、当時としてはそれも斬新な試みであったのだろう。あるいは現代の「多様性」の起点とみることもできる。なお現在の二科展は絵画・彫刻・デザイン・写真の部門に落ち着いている。

 二科展工芸部が無くなった後、勝馬は55年「友禅」で最初の人間国宝となり、84年には山田も認定された。両者は生業としてもキモノを制作し、54年に創設された日本伝統工芸展を舞台に、伝統工芸の作家性、創造性を世に知らしめていった。一方、中村光哉は、50年代半ばには、父に学んだ友禅からろう染めの仕事に移り、60年代には東京芸術大学に染色の講座を創設する。芸大で後進の指導に努めながら、日展や日本現代工芸美術展で活躍し、個展も精力的に行った。

 冒頭の企画展では、中村光哉の代表的なろう染めの屛風を中心にキモノやネクタイなども展示される。その力強い作品世界から、戦後の染色作家の気迫と前衛精神を受け取ることができよう。

2023年9月10日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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