筆者が客員教授をしている愛知県立芸術大学の崔宰熏(チェゼフン)教授の案内で同県常滑(とこなめ)市を歩いた。衛生陶器で知られる常滑のINAX(現・リクシル)の優秀な陶磁デザイナーであった崔は、常滑を知り尽くしている。訪問時、常滑は国際芸術祭あいち2022の会場の一つでもあり、やきもの散歩道の一角にある旧青木製陶所では崔ら常滑20作家の作品が展示されていた。大窯業地・常滑ならではの歴史が染み込んだ建物の壁や柱は、生半可な現代作品など凌駕(りょうが)しそうな強さもある一方、果敢にその空間に挑む作家たちの作品を温かく包み込んでいた。
INAXライブミュージアムの「窯のある広場・資料館」では、日本の代表的な前衛陶芸家の一人で常滑出身の鯉江良二(1938~2020年)の作品と「再会」した。自身の顔を型取りした土が徐々に崩れていく「土にかえる」、反戦メッセージをうかがわせる「証言(ミシン)」などが確かな存在感を示し、彼もまた常滑の重要な歴史の一部になっていることを伝えていた。
鯉江は生前、「俺、日本の有名な建物を結構作ったよ」と語っていた。彼は10代の頃、土管製造所のアルバイトで右手の指の一部を失った後も、常滑高校の窯業科に学び、一時期タイルの会社で働いている。土管もタイルも明治以降の常滑がけん引してきた窯業製品であり〝清潔で美しい近代的な日本〟を築くために欠かせないものであった。例えばフランク・ロイド・ライトの建築で知られる帝国ホテルの旧本館の外装タイルは、常滑の陶工たちが製作している。世に知られるのは建築家や建物の名前だけだが、実際にはその材料を準備した職人や、建築作業に従事した人々がいる。鯉江の言う「有名な建物を結構作った」とは、建築の意匠性を左右する重要な素材であるタイルの生産に従事した、ということなのである。
鯉江はその後、前述のような先鋭的な作品を精力的に発表し、海外でも各地でワークショップを行うなど国際的に活躍した。89年には愛知県立芸術大学の助教授となり、学生たちには「たくさん失敗しなさいよ」と指導していた。言葉の背後には、大窯業地に生きた彼自身の圧倒的多作の経験がある。
常滑は、陶磁史をさかのぼれば中世六古窯の一つであり、堅牢(けんろう)な炻器(せっき)質の甕(かめ)などを日本各地に流通させた。19世紀には土管やタイルに先立ち、急須生産も始まり、戦後は三代山田常山のような急須の人間国宝も現れている。常滑のろくろによる高度な急須成形の技術は、鯉江が前衛的作品の一方で手がけたマジシャンのごとき軽快なろくろテクニックによる器とも通じる。
窯業地常滑の持つ懐深さ、豊かさを、どの時代の作り手たちも吸収し育ってきた。いかなる個人も壮大な歴史の中に生きていることを、常滑は町全体で気づかせる。鯉江良二のような陶芸家のたくましさのルーツもまた、この常滑の歴史と風土にある。
2022年11月13日 毎日新聞・東京朝刊 掲載