対談する外舘和子氏(左)と井上章一氏

【KOGEI!】 遊びと対話が育む京都の工芸

文:外舘和子(とだて・かずこ)(多摩美術大学教授)

 女流陶芸展公募55周年を記念し、『つくられた桂離宮神話』(講談社学術文庫)などの著書で知られる井上章一氏と京都で対談した。対談が決まった折、知人に知らせると「それは大変」と存外に心配された。確かに氏の著書からは一筋縄ではいかない独特のシニカルな批評精神が窺(うかが)われる。だが常識や通念を疑い、既存の権威に物申す氏の姿勢こそはいかにも「京都」ではないか。長らく陶芸界にあった女性に対する偏見を乗り越え、1957年、京都で団体「女流陶芸」を結成し、後にはそれを公募展という形に発展させてきた坪井明日香ら女性たちの不屈の精神と、井上氏の姿勢には通じるものがある。

 女流陶芸だけではない。陶芸オブジェの世界を切り拓(ひら)いた四耕会、続く走泥社など、陶磁史上の歴史を切り拓く新しい動向はいずれも京都で誕生している。京都には代々続く陶家などの揺るぎない伝統が存在するが、それは一方で対抗勢力を生み出すエネルギーにもなるのだ。

 注目すべきは京都の人々のコミュニケーション力である。スマホなどまだ普及しない頃から、京都を訪れると、私がどの陶芸家と会い、帰りに本屋でどんな本を手に取ったかまでも1週間後には京都の多くの陶芸家が知っているという状況がよくあった。東京の画廊なら一人静かに作品を鑑賞して帰ることが多いが、京都で街の画廊に行けば必ずさまざまな工芸家と出会い、作品を批評し合うことが常である。狭い地域に作家や関係者が集中しているからこそだが、情報交換力は京都人の話し方にも由来するだろう。彼らの物言いを、中には皮肉っぽいと受け取る人もいるようだが、私はむしろ極めて高度なユーモアを感じる。そこには、ただ正論を振りかざすのではなく、自虐的なネタから入る、相手の意表を突くなど、豊穣(ほうじょう)な言葉の遊びがある。各々の意見が一方的な攻撃ではなく、文化や芸術を共に楽しむ術(すべ)として作用するのである。京都では保守と革新が必ずしも絶縁せず、古いものと新しいものが巧みに共存していることもうなずける。

 加えて京言葉の優雅な抑揚と言い回しは、ジェンダーレス、エージレスな空気も生む。たとえ相手が男性であっても、近所の親切な(もしくは多少お節介な)オバチャンと話しているかのような親近感を覚えるのは、私だけであろうか。
 京焼には中国陶磁風の潔癖な完成度を示すタイプの磁器もあるが、歴史的にも柔らかな陶器や半磁器で、遊びのある形や模様を創り出すことを得意としてきた。今日の女流陶芸展の作品の多様さは、いわばその現代的な広がりともいえる。女流陶芸展は今後もウイットに富んだ対話や批評の場となり、陶芸家たちの遊びに満ちた自由な制作を育む土壌となるだろう。遊びと対話の姿勢こそが文化や芸術を育むことを、京都は街全体で教えてくれるのである。

2022年7月10日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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