ちょうど、伝統工芸や柳宗悦(1889~1961年)に関する論文を書いた直後、東京国立近代美術館で「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」(2月13日まで)を見た。「持続可能な社会」が話題の昨今、自然素材を基本にした日常生活の在り方に通じる展覧会はタイムリーである。民芸品自体の魅力に加え、民芸運動を推進した柳のデザインセンスや編集戦略にも触れた点は、従来のこの種の展覧会と比べてもユニークだ。
ただし、柳の人間性に触れ、彼が20世紀に果たした役割を顕彰するなら、もう一つ重要な事がある。彼はこの時代の先進的なエリートの一人で、『白樺』の代表的な執筆者でもあり、芸術における個性、特に20世紀工芸史上に現れた「個人作家」という新しい価値観をいち早く認識した人であった。
1955年、最初の人間国宝の認定時、濱田庄司の指定技法が「民芸陶器」とされたことについて、柳は当時の『芸術新潮』の座談会で文部技官らを相手に猛然と抗議している。「濱田のものを民芸陶器と呼んでいるでしょう、あれは僕らの場合大いに迷惑しているんだ」「濱田のものは民芸陶器でも何でもないのだ。個人作家のものだ。(略)民芸品というのは、名もない人が実用のために作ったもの、そういうものが民芸陶器なんだ」。また「作家として昔のものをまねしてうまいということは、富本(憲吉)がうまいとか濱田がいいということと標準が非常に違うんだ」と倣古的作家と、富本や濱田との違いに厳しく言及している。
柳は民芸品と、民芸に学んだ個人作家の作品との違いを誰よりも認識していた。展覧会場の冒頭でも示されたようにロダンといち早く交流した一人である柳は、絵画や彫刻だけでなく工芸においても「個人作家」という価値を見いだし、その価値観も維持していた。そこを説明しなければ、最初は西洋美術家の個性に興味を持ったが、間もなく職人仕事の匿名性に興味が移ってしまった人という柳に対する誤解、濱田を民芸の職人と混同する大衆の勘違いを払拭(ふっしょく)できない。ロダンの彫刻を冒頭で展示する意味も変わってしまう。
柳の見識の高さは、個人作家や独創性という価値を維持しながら、同時に朝鮮半島を含め各地に伝わる無名の職人の手仕事も評価したことにある。そこには人間一人ひとりの生き方を尊重する本質的な民主主義があり、今日における多様性の尊重にも通じる。
彼は二つの眼(め)を持ち、地域性と、地域に学んだ作家の個性との違いを理解した上で両方を評価した。民芸という価値も、工芸の個人作家という価値も共に20世紀の所産である。柳の側にいた芹沢銈介(けいすけ)や河井寛次郎らが、20世紀工芸を代表する最も個性の強い作家となっていることも、柳が二つの眼を持ち続けた事を裏付けていよう。
2022年1月9日 毎日新聞・東京朝刊 掲載