田沼武能さん=東京都中野区の自宅で2017年2月、西村隆撮影

【寄稿】
田沼武能さんを悼む 写真界全体の牽引者

文:飯沢耕太郎(写真評論家)

写真

 1929(昭和4)年生まれ、93歳というお年からすると、「天寿を全うした」というような書き方がしっくりくるだろう。だが田沼武能(たけよし)さんについては、それではどこか違和感が残る。誰もが「田沼さんはお元気でしたね」と異口同音に語るのを聞いて、そう感じていたのが私だけではないことがわかった。

 6月2日の突然の逝去の一報を聞く、ひと月半ほど前だっただろうか。田沼さんから直接お電話をいただいた。現在、企画が進行中の『日本写真大全』(小学館から刊行予定)に掲載する、木村伊兵衛の写真作品についての確認の電話だったが、歯切れのよい口調はまったくお元気そのもので、逆に訃報を聞いた時に驚きすら覚えたのだ。

 とはいえ田沼さんも、自身の写真家としての経歴において、一つの区切りがついたという思いもあったのではないだろうか。田沼さんは2015年に、20年間の長期にわたって務めてきた日本写真家協会(JPS)の会長職を辞任した。そして19年には、写真家としては初めて文化勲章を受章する。21年には、日本写真家協会創立70周年記念の「日本の現代写真 1985―2015」展を、展示全体の監修者として実現させた。むろん、ご本人にはまだまだやりたいこと、やり残したことがあったに違いない。だが、こうしてみると、長年にわたる写真界への多大な貢献が、実り多い収穫の時を迎えたことを見届けた上での逝去だったのではないかという思いもまた強まってくる。

 それにしても、ここ10年余りの間に、日本の戦後写真史を担ってきた写真家たちが相次いで亡くなっていることに気がつく。石元泰博(12年没)、東松照明(同)、深瀬昌久(同)、大竹省二(15年没)、長野重一(19年没)、須田一政(同)、奈良原一高(20年没)といった方たちだ。共通しているのは大正末から昭和初期に生を享(う)け、第二次世界大戦後に本格的に写真家として活動し始めたということである。いわば「昭和」という時代の申し子ともいうべき世代といえる。

 田沼さんもまさにその代表的な一人である。浅草に生まれ、東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)卒業後にサンニュースフォトスに入社し、こちらは「戦前世代」の代表格といえる木村伊兵衛に師事することから、写真家としての経歴を出発させた。だが、その名前が広く知られるようになるのは、65年にアメリカのタイム・ライフ社と契約するなど、伝説的なグラフ雑誌『ライフ』をはじめとする、フォト・ジャーナリズム全盛時代の一翼を担ってからだった。「世界の子どもたち」の撮影をライフワークとする、その後の田沼さんの活躍ぶりには目を見張るものがあった。

 田沼さんをはじめとする「戦後世代」の写真家たちは、フォト・ジャーナリズム(報道写真)だけでなく、それぞれの分野で新たな写真表現の領域を切り拓(ひら)き、日本の写真家たちの活動のレベルを、国際的に高く評価されるところまで押し上げていった。そのような上げ潮に乗った写真の勢いは、残念だが、やはり90年代以降には失われていったというべきだろう。田沼さんについて語るべきことの一つは、にもかかわらず、日本写真家協会会長、日本写真保存センター代表といった要職に就き、写真界全体を牽引(けんいん)する立場にあり続けたということである。その功績は誰にも否定することができないはずだ。

 写真家の田沼武能さんは6月1日、脳内出血のため死去。93歳。

2022年7月11日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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