「肩書なんてなんでもいいの。面倒くさいから!」。からからと笑う。ただ、日本において、女性写真家のパイオニアであることは間違いない。国内の展覧会・賞はもちろん、アジア人女性として初めてハッセルブラッド国際写真賞を受賞するなど、世界から注目を集める存在だ。
独学で写真を始め、1977年にデビュー。多感な時期を過ごした横須賀や、旧赤線の建物などを粒子が浮かぶモノクロ写真で表してきた。88年から取りかかったのが、女性50人の手足を写した「1・9・4・7」だ。「個人的な問題を撮り尽くして、これからどうしようかなと思っていたときに40歳になったわけです」。それまでも目に見えない時間に関心があった。「じゃあ40年間の時間はどこにあるのだろうと考えたときに、手と足にたまっているんじゃない?と。それで始めたんです」
撮影したのは自分と同じ47年生まれの女性ばかり。「同い年ということは、もしかしたら私がその人だったかもしれない。全部自分を撮っているような感じでした」。静かなモノクロの画面に浮かぶ手足。変形した爪やしわ、ささくれ。細部から女性たちの人生がさざ波のように広がる。「手足はもともと荒れているから」と粗い粒子を用いた表現をやめた。
「わだかまりみたいなものを一生懸命撮ってきたけど、50人の生き方を見たとき、肩の力を抜いていいんだと。それで写真を撮るのがすごく楽になった。私にとって非常に大きなターニングポイントだったですね」。人、とりわけ女性の身体にある、見えない時間を見つめる。今も続くスタイルは「1・9・4・7」が起点だった。
写真が捉える「今、ここ」に潜む長い時間。「時間は目に見えないけど、『写真はそれを写すことができるんだよ』みたいな。今も広島を撮っていますけど、これも一つの時間の堆積(たいせき)だからね」
広島の原爆資料館にある被爆者の遺品を、2007年から撮っている。22年11月に撮影したのは布製の小さな財布。手作りなのだろうか、名前が縫い取られている。「開けてみたらさ、お札。四角く折りたたんでて、広げたらきれいなの。9枚入ってて、仰天しちゃってさ」。吐息を漏らすような口ぶりで思い返す。
財布は広島市立第一高等女学校1年生だった前岡茂子さんの物で、原爆で行方不明になった後も、母親が大切に持っていた。「私が去年の11月に出合ったお札なの。それは過去のものじゃないの。ちゃんとお札が生きていた、生きてたってのは変だけど、存在していたってことだから」。原爆資料館によると、寄贈される実物遺品は年々少なくなってきているという。「いつまで続くかわからないけど、(遺品が)入ってきている以上は撮りますよ」
「死に近いものを撮っている」と石内さんは話すが、その写真は生を照らすものでもある。広島市現代美術館では今、新作「The Drowned」が展示されている(18日まで)。台風被害に遭って波打ちカビが生えた自身の写真を、撮影することで再生させた。
「200年たっていない写真の歴史のうち、私が40年以上やっているということは、もう歴史を作ってる一人だなって、最近思ってますよ。ずうずうしく」
◇桐生での暮らし満喫
2018年に拠点を東京から桐生に移した石内さん。月に1度読書会をしているの、とノートを見せてくれた。
ベラルーシ出身でチェルノブイリの原発事故や戦史をテーマにしてきた作家でジャーナリストのスベトラーナ・アレクシエービッチさん、環境問題を告発した生物学者、レイチェル・カーソン、食と農の歴史について研究する藤原辰史さん……。手書きのページには、著者や参加した人の名前が並んでいた。原爆やアイヌ民族、田中正造についての本もあった。
今は、若い男性たちと、帯や着物をリメークしたスカジャンを作っているという。「写真を除くと一番新しい仕事ですね。もう楽しくって!」と声を弾ませた。
1947年 群馬県桐生市生まれ。神奈川県横須賀市で育つ
66年 多摩美術大学デザイン科入学。大学2年から染織専攻
77年 「絶唱、横須賀ストーリー」展でデビュー
79年 「APARTMENT」で女性写真家として初めて木村伊兵衛写真賞を受賞
88年 「1・9・4・7」シリーズ制作開始
2005年 「Mother’s」で伊ベネチア・ビエンナーレ日本館代表
07年 「ひろしま」シリーズ制作開始
09年 毎日芸術賞受賞
14年 アジア人女性として初めてハッセルブラッド国際写真賞受賞
23年 朝日賞受賞
2023年6月4日 毎日新聞・東京朝刊 掲載