個展「矯めを解す」を開いた谷澤紗和子さん=大阪市西区で
個展「矯めを解す」を開いた谷澤紗和子さん=大阪市西区で

 太陽をかたどった金色の紙の中心に、目と口が切り抜かれている。『智恵子抄』で知られる高村智恵子の顔だという。口を開き、こちらに何か伝えようとしているのか。古びた木枠の中の小さな顔を見つめていると、もどかしさに駆られた。

 タイトルは「はいけいちえこさま」。京都を拠点に活動する現代美術家・谷澤紗和子さんが、洋画家・紙絵作家の高村智恵子をオマージュした作品だ。自身も切り紙を手がける谷澤さんは智恵子の作品にひかれ、その創作について調べ始めたが、行き当たるのは夫・高村光太郎のフィルターを通した智恵子像ばかり。故郷を離れ大学に進み、親の反対を押し切って洋画家に。『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、病室では千数百点もの紙絵を作った。「一途(いちず)」や「純朴」といった世間のイメージとは違う、自立した個人・智恵子の声が聴きたい。小さな顔には、そんな思いがこもる。

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「はいけい ちえこ さま ―太陽―」2021年 撮影・表恒匡 提供・京都精華大学ギャラリーTerra−S
「はいけい ちえこ さま ―太陽―」2021年 撮影・表恒匡 提供・京都精華大学ギャラリーTerra−S

 「フェミニストとして、自身の中に無自覚にある差別心や、空気のように社会に蔓延(まんえん)する差別的な価値観についての気づきになるような制作態度を示したいと考えています」。自身のサイトでこう宣言し、ジェンダーをテーマに作品を制作する谷澤さんだが、問題意識が明確になったのは数年前からという。

 それまでも、引っかかることはあった。京都市立芸術大で教わった教授陣はみな男性だったし、院試でフェミニズムに言及すると、「そういうのはもう飽きたんだよね」と返されたこともあった。卒業後は同世代の男性の方がいい仕事をもらっているとも感じた。ただ、大きな壁を感じるほどではなかった。

 2018年、出産。「親になるのは大歓迎だったのに、突然『母』という代名詞が舞い降りてきた」。保育園の申し込みで役所に行くと、来ているのは全員女性。指定された時間は夕刻で、赤ん坊たちは泣いている。谷澤さんも泣く子を抱いて職員とやり取りするが、泣き声にかき消されお互いの声が聞こえない。予算を割いて託児サービスさえ用意してくれていれば。そもそもなぜここに父親はいないのか。社会の仕組みに対する疑問や怒りが、あふれた。

 産後しばらくは時間と場所の制限から、大きな作品が作れない。発表するあてもなく、A4の紙に描き始めた。当時のファイルには、顔の中に「くそやろう」や「NO」といった言葉を配したドローイングが並ぶ。「女性が使うべきではない」罵倒や抵抗の言葉。抑圧をかいくぐり、やっと発せられた言葉だと表現したくて、うねる線で描いた。

 ジェンダー研究の文献にも目を通し思索を深めていた翌年、作家・藤野可織さんとの共作「信仰」を発表し、ジェンダーをテーマに据えることに手応えを感じた。智恵子について本格的に調べ始めたのも、この頃。「はいけい――」は冒頭の「太陽」のほか、智恵子による「青鞜」の表紙絵や産後のドローイングから生まれた「NO」などをモチーフにした6点組みで、木枠に日本家屋の廃材を用い、女性の足かせとなってきた家父長制度を象徴させた。金と赤の美しい造形の中に切実なメッセージを織り込んだ作品は、若手芸術家の登竜門「VOCA展2022」で佳作に選ばれた。

 昨年12月には、大阪で個展「矯(た)めを解(ほぐ)す」を開催。タイトルは社会や教育に矯正され、知らず知らず染まってしまった価値観を解きほぐす、という意味で付けた。同名の新作は、ぺしゃんこになったショベルカーやクレーン車に赤い線が絡む紙の作品。モチーフにしたのは子どものおもちゃだという。

 息子が好む重機のおもちゃ。何がかっこいいのか、正直わからない。ある時そんな話をしたら、男性作家が「かっこよさ、わかるよ!」と興奮気味に応答した。「それを聞いて、仕組みがわかった!と思いました」。自分が身を置いているのは「重機をかっこいいと思う」人たちが築き上げたコミュニティーではなかろうか。男性優位の世界で感じてきた不条理に、説明がついた気がした。「そこに一生懸命入ろうとするのではなく、別の仕組み、別の見方で考えていかなきゃいけない」

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 会場で、白一色の作品に目が留まった。エンボスによる和装の女性と、切り紙のくしゃくしゃの塊。女性は智恵子で、塊は自画像だという。美術の歴史の中で男性によって客体化されてきた「女性像」の問題は、根深い。人間としての女性をどう描くか。今はまだ模索中だ。

 いびつでくしゃくしゃな塊は、不思議と楽しそうに見えた。時空を超えた女性の連帯が放つ輝きだろうか。小さな作品を前に、空想にふけった。

◇あえて切り紙で表現

 「はいけいちえこさま」は愛知県美術館所蔵。収蔵に関わった学芸員の中村史子さん(現在は大阪中之島美術館勤務)は、谷澤さんについて「以前からしっかりした技術でスペクタクルな面白い作品を作っていたが、20年ごろから作品にぐっと緊張感が生まれ、強く、クリティカルな表現になった」と評価する。美術界で等閑視されてきた女性や非西欧圏の作家を再評価する動きは、キュレーターや研究者の間では世界的潮流となっているが、「谷澤さんは同じ作り手という立場で、今まで軽く見られてきた女性作家を再考している点に特徴がある」と中村さん。谷澤さんは実際の制作を通じて、智恵子の高い技術や理知的な構成力に気付いたという。

 絵画や彫刻が美術の「王道」とされる一方で、女性が主に担った手芸などは一段下に見なされてきた。切り紙も絵画の周縁に位置づけられてきた手法の一つ。近年では歴史的背景を理解した上で、あえてそうした手法を取る現代美術家も活躍する。谷澤さんも、ヒエラルキーの上位に位置しない、紙とハサミさえあればできる誰にでも開かれた切り紙という手法で、女性をはじめ、弱い立場に置かれた人たちの存在を表現している。

2024年2月25日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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