香港で2021年11月、20~21世紀アジアの視覚文化を紹介する美術館「M+(エムプラス)」がオープンした。開館1周年を記念する特別展として開いたのは、日本の美術家、草間彌生さん(94)の回顧展だった。M+の魅力と、「Yayoi Kusama:1945 to Now」展について紹介する。
M+のある西九龍文化地区は、九龍半島の西側を埋め立ててできたエリアだ。ほかにも、香港故宮文化博物館、中国伝統劇の「戯曲センター」があり、間もなく別の劇場もオープン予定だという。対岸には香港島の高層ビル群が林立するが、一角は公園の緑に囲まれ広々している。
美術館の外の大階段を見ると、結婚式用の記念撮影をしていたり、カップルが座っておしゃべりしていたりと、人々が思い思いに楽しんでいた。入り口は各方向にあり、開放的なつくりだ。「公園に行く近道として、通り抜けてもいいんです」と、デザイン・建築部門のリードキュレーター、横山いくこさんは話す。
建築はスイスのヘルツォーク&ド・ムーロンが手がけた。竹にも寺の瓦屋根にも見える深緑のタイルが外壁や内装に使われ、タイルの波打つような曲線も、ベンチなど随所のデザインに見られる。美術館内外の境界を低くする試みが素材にも表れている。
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展示総面積は約1万7000平方㍍、ギャラリー数は33。「アジア初のグローバルな現代視覚文化美術館にふさわしいのは、アジア出身の世界的作家だった」。草間展を担当した副館長でチーフキュレーターのドリュン・チョンさんは、M+を英テート・モダン美術館や、仏ポンピドーセンターなどと並べて話す。
世界中で行われてきた回顧展といかに差別化するか。大きく時代順に展示するのではなく「無限」「蓄積」「死」「生命の力」などの六つのテーマから、草間さんの創作と人生を見つめることにした。
例えば、「無限」で紹介するのは、米ニューヨークに移り、初めて注目された「ネット・ペインティング」シリーズ。1950代末を皮切りに、70年代や近年の作品も展示する。同じテーマに何度も立ち戻るスタイルだといい、「最初のアイデアからブレークスルーに至り、回帰し、またブレークスルーを起こす。彼女の長年の実践がいかに豊かで複雑かが分かります」。
さらに、重要な視点を示す。主に「死」のセクションで紹介されるのは、長年苦しむ精神疾患に関連する作品だ。草間さんは保守的な日本社会にあって早くからうつ病や自殺願望について語っていた。コロナ下で頻繁にメンタルヘルスが話題に上ったことを考えれば、「時代を先取りしていた」(チョンさん)。20代のアジア人女性が、単身米国に渡った勇敢さと併せて、「アジア系の女性アーティストをはじめ多くのアーティストに道を示した」とたたえる。
美術館の空間に合わせて作られた立体作品など新作3点も初公開された。鏡面によってモノクロの水玉の世界が無限に広がるインスタレーションでは、体験するために多くの人が行列を作っていた。
日本以外のアジアで最大規模となった同展。会期(2022年11月~23年5月)中には28万人以上が訪れ、6月下旬からはスペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館に巡回される。新作3点はM+で引き続き鑑賞できるという。
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M+のもう一つの見どころが、主に戦後から現代を扱う、デザイン・建築の収蔵品展示だ。横山さんは「西洋中心ではなく、香港、アジア、そして世界がいかに影響を与え合ったか。ベストなものというより、関係性やストーリーが見えることを最優先に(収蔵品を)選びました」と話す。
展示室に入ってすぐ、ラタンの椅子が3点展示される。まずあるのが、50年代に香港の写真館で使われた定番の椅子。「香港らしい」と思われているこの椅子が、素材を通して日本や遠くブラジルとつながったり、それぞれの土地に応じたデザインになったりすることが分かる。
アジアの国産家電や国家的建築物の図面なども展示される。横山さんは「植民統治からの解放など、各国がアイデンティティーを取り戻そうとした際に、デザインや建築は大きな力を与えた」と話す。
日本関連では、東京からまるごと移設された倉俣史朗デザインのすし屋や、解体時に運び出したという銀座のソニービルのルーバー、青木淳さんが関わった携帯電話の絵文字のデザインなども見ることができる。
「文化的砂漠地帯なのに、なぜ香港に来たのかと、何度も地元のジャーナリストから聞かれました」。チョンさんはニューヨークから香港に来たときのことを思い出して苦笑する。ここ10年で、これまで目立っていたマーケット関連に加えて、M+のような文化機関や非営利団体も増えた。香港の地理的、歴史的立ち位置に触れて話す。「人々の意識は大きく変わった。暮らしや街も含めて文化なのです」
2023年6月11日 毎日新聞・東京朝刊 掲載