「蓮鷺図襖」の前に立つ正伝永源院の真神啓仁住職=京都市中京区の京都文化博物館で
「蓮鷺図襖」の前に立つ正伝永源院の真神啓仁住職=京都市中京区の京都文化博物館で

 織田信長が討たれた「本能寺の変」を生き延びたばかりに「逃げた男」という不名誉なレッテルを貼られた信長の弟がいる。「有楽斎(うらくさい)」の名で知られる織田長益(1547~1621年)だ。その人生にスポットライトを当てた特別展「大名茶人 織田有楽斎」が京都文化博物館(京都市中京区)で開かれている。負のイメージを払拭(ふっしょく)し、新たな人物像を描こうとの意欲的な内容だ。

古澗慈稽賛・狩野山楽筆「織田有楽斎像」=正伝永源院蔵(展示は5月21日まで)
古澗慈稽賛・狩野山楽筆「織田有楽斎像」=正伝永源院蔵(展示は5月21日まで)

 有楽斎は信長の13歳下の弟。本能寺の変の際には信長の嫡男信忠と共にいたが、信忠が自害する一方で自身は逃げ延び、その後豊臣秀吉、徳川家康という天下人たちに仕えた。茶人として活躍し、晩年には建仁寺の塔頭(たっちゅう)・正伝院を再興して隠せい。茶室「如庵(じょあん)」(国宝、現在は愛知県犬山市に移築)を建てるなど、茶の湯に没頭する日々を過ごした。展覧会では正伝院の歴史を継ぐ正伝永源院(京都市東山区)の寺宝を中心に145件が並ぶ。

 西山剛学芸員が「悪評の根源の一つでは」と指摘するのが「義残後覚(ぎざんこうかく)」。16世紀末ごろに成立したとみられる世間話集で、展示されるのは江戸後期の写本。本能寺の変の際、有楽斎が信忠に切腹をすすめておいて逃亡したなど、その行動をあしざまに描く。「この書は秀吉とその周辺が絶賛される一方で、信長とその一族は酷評される傾向にある。一定の信ぴょう性はあっても史実とは言えないのでは」と語る。

 一方、正伝永源院などに伝わる書状からは「調整の人」という顔が見える。武野宗瓦(そうが)や古田織部といった茶人たちと盛んにやり取りし指導的な立場にあったことや、微妙な人間関係を巧みに結びつけようとした様子が分かるという。「当時、茶の湯と政治は表裏一体。茶会という場でさまざまな重要な調整を担ったことが透けて見える。悪評高い人物だったとしたらとても果たせない」と西山さんは指摘する。

 有楽斎が愛した茶道具も並ぶ。「三島筒茶碗(ちゃわん)銘藤袴(ふじばかま)」(15~16世紀)、「青磁輪花茶碗銘鎹(かすがい)」(13世紀)、「大井戸茶碗有楽井戸」(重要美術品、16世紀)は特徴が違うが、いずれも中国や朝鮮由来の茶碗。「素朴で簡素だが、端正な美しさがある。シンプルさの中にある優しさや柔らかさに目を向ける人だったのでは」と有賀茜学芸員は語る。同時代の絵師、狩野山楽のふすま絵「蓮鷺図(れんろず)襖(ふすま)」(17世紀)を、正伝永源院の本堂を再現するように展示したのも見どころだ。

 現在も正伝永源院には有楽流茶道が伝わる。真神啓仁(まがみけいにん)住職は「困難をかわしながら戦国の世を生き抜いた人。『逃げ』のイメージにとらわれずに有楽斎と向き合ってほしい」と語る。6月25日まで。月曜休館(5月1日は開館)。

2023年4月30日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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