池田の「愛の瞬間」66年、広島市現代美術館蔵

 芸術家・池田満寿夫(1934~97年)が亡くなって四半世紀。原点である版画の、そのまた原点となった初期の十数年に光を当てた展覧会が、和歌山県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。題して「とびたつとき」。後にマルチアーティストとして活躍する池田が、若き日の挫折を乗り越え軽やかに世界に飛び立つ、その瞬間に立ち会うことができる。

 池田は旧満州(現中国東北部)に生まれ、終戦後、長野に引き揚げた。52年に上京し、東京芸大油絵科を受験するも失敗。団体展に落選し、芸大受験も3年続けて不合格となるなど不遇の日々を過ごした。転機は、色彩銅版画に出合った56年。翌年には第1回東京国際版画ビエンナーレで入選し、第2回展で文部大臣賞を受賞。65年にニューヨーク近代美術館で日本人初の個展を開くと、66年、ベネチア・ビエンナーレの版画部門国際大賞を受賞した。版画を始めて10年というスピードでの快挙だった。

池田満寿夫「タエコの朝食」1963年、広島市現代美術館蔵

 本展では最終第5章で、池田が版画に腰を据えてからベネチアで受賞するまで(58~66年)の作品64点を展示している。奔放な線が交錯し、生きもののざわめきを感じさせる「女・動物たち」(60年)は第2回東京展の受賞作。「タエコの朝食」(63年)では、絵と文字を自在に操る「落書きスタイル」が、独特のユーモアを生んでいる。

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 池田が油彩画から版画へ転じたのは、美術界にアンフォルメル旋風が吹き荒れていた頃。激しく熱い抽象画がもてはやされる時代に背を向け、日常を持ち込んだ小さな銅版画に向き合った池田は、「マイナーにはマイナーだけが持ちうる自由さがある」(自伝「私の調書」)と気付く。そして、軽やかさという理想に向け、銅版画ならではの表現を極めていく。

 「愛の瞬間」(66年)をはじめとするベネチア受賞作は、自由な線とモダンな色遣い、反復するイメージなどが相まって、あかぬけた印象に磨きがかかっている。井上芳子学芸課長は「紙の白を効果的に用いたスタイリッシュな表現で、どこか詩的、物語的でもある。一方で、当時米国で最先端だったウィレム・デ・クーニングなどの抽象表現主義にも通じるような表現を、銅版画の鋭い描線で実現している面白さもある」と解説する。

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 池田に版画を勧めたのは、画家の瑛九(えいきゅう)(11~60年)。51年、既存の公募展と絶縁し、自由・独立の創作活動を掲げた「デモクラート美術家協会」を大阪で旗揚げした。翌年には東京に進出し、55年、池田と出会う。副題に「池田満寿夫とデモクラートの作家」と銘打つ本展では、泉茂、靉嘔(あいおう)、吉原英雄ら瑛九のもとに集った若手作家らの「とびたつとき」にも迫っている。

泉茂「闘鶏」57年、和歌山県立近代美術館蔵

 比較的安価で手に入りやすく、芸術の民主化にもかなう版画に、デモクラートの作家たちはそれぞれに取り組んだ。池田が入選した57年の東京国際版画ビエンナーレでは、泉の「闘鶏」が新人奨励賞を受賞。これをきっかけに、権威を否定する瑛九はデモクラート解散を決めた。第4章「それぞれのとびたつとき」には、その後数年間の彼らの作品が展示されている。ニューヨークへ向かった靉嘔は代名詞となる「虹」をつかみ、泉は具象から抽象へ、吉原もまた抽象へと移行していく。「それぞれが表現スタイルを確立していく、変化の兆しが見て取れる」と井上氏。4月9日まで。月曜休館(073・436・8690)。広島市現代美術館などに巡回する。

2023年3月1日 毎日新聞・大阪夕刊 掲載

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