亜欧堂田善「江戸城辺風景図」18~19世紀、東京芸術大学蔵

 現実と非現実が入り交じったような世界が横長の画面に広がる。東京・神田、一ツ橋付近を絹地に描いた油彩画「江戸城辺風景図」。左側には城の石垣とお堀、右に平地。毎日新聞東京本社の近くだから、記者にも既視感がある。にもかかわらず、真ん中の道を歩く男たちは夢のなかへと向かっているように思える。奥の九段坂に描き込まれたごま粒のような人々、沿道の木々や土手の緑と、濃い影。ここではないどこか。

 福島生まれの亜欧堂田善(1748~1822年)は、画僧月僊(げっせん)に師事した後、藩主松平定信の命で、47歳から銅版画を学び始める。江戸に滞在し、限られた情報、画材の下、銅版画や油彩の技術を身につけていく。

 特に学習途上では、イメージと技法の不一致がかえって奇妙な味わいをもたらす。例えば銅版画の陰影を墨画で表した「少女愛犬図」。墨を散らしたり、ぼかしたりしてつくる明暗と、伝統的な輪郭線が共存して、異様な迫力をかもす。

亜欧堂田善「少女愛犬図」1804~22年ごろ、個人蔵

 さらに田善は、日欧の印刷物や同時代の文人画、先達・司馬江漢の洋風画など多種多様なイメージをミックスし、自身が見た人々のにぎわいなどの実感を加えて表した。その到達点の一つが江戸の風物を題材にした「銅版画東都名所図」だろう。繊細な線の一本一本を、展示されたスケッチでも見られる、ずんぐりとした手で刻んでいった。

 帰郷後につくられた〝銅版画グッズ〟という副産物も展示されている。田善から原版や道具を譲られた呉服商・八木屋は布に絵を刷り、半襟やたばこ入れ、帽子に仕立てた。「亜欧堂先生の鏤盤摺」は須賀川名物になったらしい。

 明治になれば、洋「風」画ではなく、洋画の時代がやって来る。当時新奇性で人々の心を捉えた田善の表現は、すぐに過去のものになった。だが、絵に残る東西文化のぶつかり合いは、せつなの表現だからこそ、今も私たちの心を捉える。

 千葉市美術館で26日まで。

2023年2月8日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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