コロナ下で、当たり前に享受してきた美術館・博物館の活動に関心が高まるなか、明治期に始まったミュージアムの歴史の、あけぼのを知るのに格好の展覧会が東西で開かれている。

打掛を着た生人形や、キリンの剝製(奥)が並ぶ国宝展の第2部

 東京国立博物館(東博)で開催中の国宝展(12月11日まで)は、第1部の国宝89件が注目されるが、第2部こそ見逃せない。上野戦争の遺物や、キリンの剝製、江戸時代の打掛(うちかけ)を着る生(いき)人形など、今の私たちには見慣れない資料が並ぶ。自然科学系を含む総合博物館は、150年の間に、古美術中心に姿を変えた。その時々の活動の集積が、目の前にある博物館なのだ。

 東博の起源は、1872年の湯島聖堂博覧会だが、その前年に日本初の「博覧会」と名につく会が京都・西本願寺を会場に催された。この京都博覧会や同寺で75年に始まった「蒐覧(しゅうらん)会」を紹介したのが、京都・龍谷ミュージアムの「博覧」展(会期終了)。展示空間や会場の写真も詳細に読み、下足番や監視員、周囲の立て札、展示のしつらえなど、展覧会運営にも意識を向けた点が興味深い。

川崎美術館展で再現展示された円山応挙「海辺老松図襖」=梅田麻衣子撮影

 東博誕生の一背景には、廃仏毀釈(きしゃく)などによる古美術の危機的状況があったが、個人で日本・東洋美術を守ろうとしたのが、川崎重工の創設者、川崎正蔵(37~1912年)だった。神戸市立博物館の「よみがえる川崎美術館」展(12月4日まで)は、川崎の「収集・保存・公開」活動を、熱を持って描き出す。

 川崎美術館は、東京・大倉集古館の前身より12年早く1890年に現在の新神戸駅近くにできた日本初の私立美術館。限定的だが鑑賞の場を年に数日設けたといい、残された当時の観覧券と招待状に、美術館が確かに存在した手触りを感じる。

 川崎が収集した千数百件は東山御物(ごもつ)など名品ぞろいだったが、昭和初期の金融恐慌で売却された。だが、調査で判明した現在のそうそうたる所蔵先に、人の手を介して美術品が伝わり、守られてきたことを実感する。ミュージアムの活動は、生きた人が織りなす営みの上に成り立つことを、3展覧会は教えてくれる。

2022年11月30日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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