青木繁(右)と坂本繁二郎それぞれの自画像。手前は、坂本による青木の碑を建設した際の辞

 幼なじみの二人がたどった画業を旅になぞらえた。1882年、現在の福岡県久留米市に生まれた青木繁(1911年没)と坂本繁二郎(69年没)、二人をめぐる展覧会は66年ぶりになる。これまでの評で二人は、以下のように対比されることが多かった。いわく、動、天才、華やか、早熟、果敢な青木。静、鈍才、地味、晩成、思慮深い坂本。本展は、こうした図式化された語り口からいったん離れ、出会いから別れまで、交差するエピソードをさらっていく。

 久留米では同じ師につき絵を学んだ。先に青木が東京美術学校に進み、その上達ぶりに刺激された坂本が後を追って上京した。当時のデッサンや写生旅行でのスケッチの他、神話や古典に着想した青木の「海の幸」「わだつみのいろこの宮」、農村の人々を描いた坂本の「大島の一部」「北茂安村の一部」といった代表作が続く。近代国家としてのあり方が模索された明治時代、新国家体制に資するような主題を扱った青木と、身近な生活に取材した坂本が対比的だ。

 父危篤の報を受け、戻った九州で青木は28歳、病死する。坂本はフランス留学後、故郷に近い八女にアトリエをかまえ、87歳で亡くなるまで静ひつな絵を描いた。外へと挑む青木と内なる自分を見つめる坂本の姿をほうふつとさせるそれぞれの自画像や、能面という同じモチーフに対する青木のスケッチ、坂本の油彩画を並べて見せる工夫もした。同館の伊藤絵里子学芸員が「二人の人生が体感できる作品、資料を選んだ」と語る通り、窮乏した青木が坂本に送った手紙や、新出のはがきなど書簡類もエピソードを補強する。

 それぞれの絶筆で幕は閉じる。青木は水平線から昇る朝日を、坂本は雲間からのぞく月を描いた。対照的ながら響き合った人生を象徴している。アーティゾン美術館(東京・京橋)で10月16日まで。

二人の絶筆となった油彩画。青木の「朝日」(右)と坂本の「幽光」

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