「雪松図」明治40年代=滋賀県立美術館蔵

 透明感あふれる鮮やかな色遣いで雄大な風景画を描いた日本画家、山元春挙(1872~1933)。その生誕150年を記念し、ゆかりの滋賀県立美術館(大津市)で回顧展が開かれている。10代で頭角を現し、近代京都画壇をリードした巨匠の画業を、約80件の作品でたどる。

 現在の大津市に生まれた春挙は、四条派の野村文挙、円山派の森寛斎に師事。早くから数々の展覧会に入選したほか、国内外の博覧会に出品するなど活躍した。1917(大正6)年、45歳で当時の美術工芸家にとって最高の栄誉とされた帝室技芸員に任命され、28(昭和3)年には、昭和天皇即位に伴う大嘗祭(だいじょうさい)に用いられた「悠紀主基屛風(ゆきすきびょうぶ)」を西の画家代表として制作。後進の育成にも熱心で、自らの画塾「早苗会」は当時、竹内栖鳳(せいほう)と京都画壇を二分する一大勢力だった。

 回顧展は制作年順に編成。明治期は、栖鳳と同時に京都画壇の展覧会で「一等」を取った「法塵一掃(ほうじんいっそう)」(1901年)など、セピア調の古風な作品が並び、大正期に入ると、春挙の代名詞となった鮮やかな色遣いへと変化を遂げていく。

 中でも目を引くのが水を表現する鮮やかなブルー。絵の具を重ねても色を濁らせることなく、透き通る水面を描く技術は他の追随を許さない。山口真有香・主任学芸員によると「春挙がどうやって水の透明感を表現していたのかはいまだに具体的にはわかっておらず、弟子ですら知らなかった」。「瑞祥(ずいしょう)」(31年)や「しぐれ来る瀞峡(どろきょう)」(同)、「武陵桃源図」(26年)など代表作の数々には、光を浴びて揺らめく水面が、鮮やかな群青や緑青で描かれている。

「しぐれ来る瀞峡」1931(昭和6)年=滋賀県立美術館蔵

 師匠や弟子が舌を巻くほど、画業に関してはストイックだったという春挙が、熱心に取り組んだのが写生だった。今回、「しぐれ来る瀞峡」と合わせて展示されているのが、実際に瀞峡を訪れた際のスケッチ。春挙が得意とした岩の表現が、スケッチの時点で作品として通用するほどの完成度を誇っていることがわかる。雪の写生にも情熱を注ぎ、雪の日に行き会った画学生に京都と滋賀の雪質の違いを説いたという逸話も。いわく、滋賀の雪は風にさらされて花鳥画の写生には向かない、写生をするなら、まっすぐに雪が落ちてきてまんべんなく積もる盆地の京都だ――。春挙の観察力や対象に的確に迫る力を示すエピソードといえる。

 円山派の伝統として写生を重んじるだけでなく、新しい技術を積極的に活用する姿勢も、独自の画風確立につながった。その一つが当時は珍しかった写真。趣味と実益を兼ねた登山にはカメラを持参し、ファインダー越しの風景を参考にすることで、春挙ならではのダイナミックな風景表現が生まれたという。

 明治から昭和の初めまで華々しい活躍を遂げた春挙だが、突然の病に倒れ、61歳という若さで亡くなった。そのため、双璧と称された栖鳳に比べ、現在の知名度は高くない。「当時の雑誌で仲間内からうまいと絶賛されるなど、玄人好みの面もありました」と山口主任学芸員。同展では伝記マンガの冊子を作製。酒好きで多趣味、竹を割ったような性格でユーモアの持ち主でもあったという春挙の人となりや、膳所焼の復興など郷土の文化への貢献など画業以外の功績も伝えている。19日まで同館(077・543・2111)。月曜休館。7月から岡山県の笠岡市立竹喬美術館、9月から富山県水墨美術館に巡回する。

2022年6月8日 毎日新聞・大阪夕刊 掲載

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