木村了子「夢のハワイ − Aloha 'Oe Ukulele」2016年 作家蔵 撮影:宮島径

【展覧会】美男におわす古今の女ならざる〝麗人〟たち

文:小林公(ただし)・兵庫県立美術館学芸員

日本美術

 (島根県立石見美術館・24日まで)

 展覧会名を与謝野晶子の短歌から借りた本展には、美しい男性を表した作品が集う。鈴木春信や喜多川歌麿の浮世絵、菊池契月らの近代日本画、挿絵や漫画の世界からも美少年や美青年が召喚される。現代の作品まで取り上げる展覧会の印象は華やかで年初に詣でるのにもふさわしいが、野暮(やぼ)を承知で付言するなら、本展にひそむ問題提起の幅は広く、切実なものだ。美人画というジャンルに描かれてきたのは女性ばかり。そこから排除されてきたように思われる「美しい」男性像とはいかなるものか。

 展覧会は5章から成り、はじめの4章では、主題や男性像の特徴など緩やかな区分に沿って伝説や歴史上の美少年、美青年、官能的な魅力を放つ若衆などの男たち、当時のアイドルたる歌舞伎役者や時には血まみれで戦う男たちの姿が紹介される。肖像画や戦争画が対象外とされたこともあり、取り上げられる男性像に偏りが見られるのは否めないが、それでも「美しい男」を考える際の重要な手がかりを得ることができる。例えば、美男画の女性作者は竹宮恵子ら少女漫画家の登場を待たねばならないこと。少女漫画でも花開いた官能美をたたえる受け身の男性像は、近世には若衆などの姿を通じてのびやかに楽しまれていたのに、近代に入ると下火となるらしいことなどだ。

 幅広い時代の多彩な作者による「美男」を見ることの効用は、それぞれの作品をとりまく「美しさ」が、唯一単純な基準に基づくものでも絶対的なものでもないと知ることにある。「美しい」という形容詞が男性に冠されたときに喚起されるイメージは驚くほどに不安定だ。だがむしろ、女性に向けられる「美しい」という形容詞の機能がひどく安定していることの方を驚くべきかもしれないのである。品定めをするように人を見ること・見られることの暴力性と無縁でいられる人はいない。それでも何かを「美しい」と感じることは、やはり創造的なふるまいでもある、そう思いたい。芸術とは、そうした思いの連鎖により育まれてきたはずだからである。女性歌人が崇敬の対象である鎌倉の大仏を軽やかに「美男におわす」と詠(うた)ったように。

INFORMATION

島根県立石見美術館

益田市有明町5の15

2022年1月12日 毎日新聞・大阪夕刊 掲載

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