稗田一穂《帰り路》1981年 和歌山県立近代美術館蔵

 昨年100歳でこの世を去った日本画家、稗田(ひえだ)一穂(1920~2021年)の風景画は、見る者を絵の中の世界に誘い込む。革新的な花鳥画でも知られた大家の、没後初となる回顧展が、和歌山県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。12歳の時のデッサンから、97歳で展覧会に出品した作品まで、80年を超える画業を網羅する展覧会。各時代の代表作に加え、本展に向けた自宅アトリエの調査で見つかったスケッチなど、約120点が展示される。

 夕闇迫る住宅街。線路沿いの坂道を一人の女性が歩いている。後ろ姿なので表情はわからない。でもなぜか、晴れやかな顔ではない気がする。複雑な空の色。生い茂る木々。向こうからやってくる顔の見えない自転車の人物。そのすべてが、女性の心に差す小さな影を感じさせるのだ。

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 稗田は同県田辺市生まれ。大阪市立工芸学校を経て東京美術学校(現東京芸術大)に進学した。戦後の1948年、当時の中堅日本画家が既成画壇の沈滞打破を目指して結成した「創造美術」(現・創画会)の第1回展に参加。いきなり奨励賞を受賞すると、続く第2回展でも奨励賞に輝き、一躍注目の画家となった。序章に続く第1章「鳥たちによせる」では、創造美術展出品をきっかけに進化した花鳥画を取り上げる。花鳥画といっても、オウムやキウイなど従来は描かれなかった鳥を描いたり、鶴の激しいまでの生命力を表現したり。当時ささやかれていた日本画滅亡論への危機感を背景に、稗田は、新しい日本画の世界を切り開いていく。

稗田一穂《かんむりづる》55年 世田谷美術館蔵

 「かんむりづる」(55年)は銀地の背景に、5羽の冠鶴を画面いっぱいに描いた一枚。鶴は鶴でもアフリカに分布する珍しい種で、黒の引き締まった立ち姿と華やかな羽冠はモダンな風情だ。同じく鶴を描いた「群鶴」(78年)は、水を飲もうとする鶴たちのしなやかな動きを描く。らんらんと光る目に、鋭いくちばし。実際に観察した鶴が、優美や高貴といったイメージとは違い、「どうもう」な印象だったことから生まれた表現だという。

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 「同じことの繰り返しではだめだ」。常々そう語っていた稗田は、還暦直前、約30年力を注いだ花鳥画から風景画へと大きな展開を遂げる。描いたのは、故郷・和歌山と自宅アトリエのあった東京・成城。以来、ゆかりの深い二つの土地を繰り返し描いた。冒頭の作品は、成城を描いた「帰り路」(81年)。インタビューで、一日を楽しくウキウキ終えたような人には「興味ないんです。縁がない」と言い、むしろ傷ついたり失望したりした人を相手に表現したいと語った稗田。その言葉通り、痛みやさみしさ、不安といった感情に寄り添う作品は、同館所蔵の中でも人気が高い一枚だという。

 本展では、2000年代以降の作品もまとまって紹介されている。「顕現<Ⅲ>(鳳凰(ほうおう)と麒麟(きりん))」(2012年)は90代に入ってからの作品。伝統的なモチーフを、やはり稗田独自の表現で描いた。特に鳳凰は、激しい鳴き声が聞こえてきそうな臨場感で描かれ、伝説上の生き物を描いた吉祥画の枠を軽やかに飛び越える。戦争体験から、晩年になるまでは描く気にならなかったという桜の作品も複数展示されている。「稗田先生は現代の日本画をどうしていくべきかという問題意識を常に持ち、かといってその問題意識に引っ張られすぎることなく、自分の軸はぶれずに持っておられた」と同館の藤本真名美学芸員。

 11月6日まで。月曜休館(10月10日は開館、11日休館。073・436・8690)。展覧会は田辺市立美術館との共催で、11月19日からは同館と熊野古道なかへち美術館に巡回する。

2022年9月28日 毎日新聞・大阪夕刊 掲載

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