黒田清輝「野辺」1907年、油彩、カンバス、縦54.9センチ×横72.8センチ ポーラ美術館蔵

【アートの扉】発見!お宝ポーラ美術館/1 黒田清輝「野辺」日本のヌード模索

文:山塙菜未(ポーラ美術館学芸員)

コレクション

近代美術

 花咲く草原に仰臥(ぎょうが)する日本人と思わしき裸婦。うつろなまなざしで見つめる先には、左手でつまんだ一輪のかれんな野花があり、その視線と呼応するかのように、長い髪はうねりながら画面右へと流れていく。右手には布を持ち、意識的に下半身を隠そうとしているかのよう。女性を上から見下ろすような大胆な構図のヌードが描かれたのは1907年。100年以上も前の日本で……と驚かされるが、近代化を進める日本に西洋の芸術理論を根付かせようとする画家の試行錯誤の跡が、この作品には隠されている。

 黒田清輝といえば「日本近代洋画の父」と称され、東京美術学校(現・東京芸術大)で後進を指導し、国の要職も歴任した人物。仏留学から帰国した直後は、西洋美術の基本とされる裸体画を、その伝統のない日本に根付かせようと奮闘した。裸体画に対する世間の批判や警察との攻防戦を経て、次第に日本でも受け入れられやすい裸婦像の表現を開拓していく。

 1900年、2度目の渡仏の際に黒田はかつての師ラファエル・コランが描いた「眠り」(1892年)を目にする。青々とした草原で深い眠りに落ちる裸婦を甘美に描き上げていた。モデルを俯瞰(ふかん)するような構図や場面設定など、「野辺」が「眠り」を念頭に描かれたことは間違いない。しかし黒田は、モデルを西洋人から日本人へと変更し、官能性を高めるモチーフであった毛皮ではなく、腰巻きを連想させる鮮やかな赤い布で下半身を覆った。その後、黒田に続く白馬会系の洋画家たちにとって、赤い腰巻きは裸婦を描く上で重要なモチーフとなり、日本的裸婦像が確立されていくのである。

PROFILE:

黒田清輝(くろだ・せいき)(1866〜1924年)

鹿児島県出身。1884〜93年、フランスに留学し、アカデミーの画家、ラファエル・コランに師事する。帰国後は明るい外光表現を日本の洋画界に広め、多くの後進を育てた。

INFORMATION

ポーラ美術館

本作は、来年3月30日まで開催するコレクション展「ラファエル・コランと黒田清輝——120年目の邂逅(かいこう)」で紹介している。本文に登場する「眠り」も見られる。無休。神奈川県箱根町仙石原小塚山1285。(0460・84・2111)

2021年10月11日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

シェアする