パウル・クレー「蛾の踊り」1923年、油彩転写・鉛筆・水彩、紙、縦51.5㌢×横32.5㌢

 青色の階調を照らす黄色い光の中、蛾(が)が羽ばたいている。しかし、弓なりに反った身体からは何本もの矢印が下に伸び、蛾を地上へと引き戻そうとしているかのようだ。よく見れば、胸には矢が刺さっている。上へ、下への力がつり合う張り詰めた瞬間は、踊りというにはあまりに悲壮な雰囲気をたたえている。

 さらにこの場面に緊張感をもたらしているのは、激しく振動する蛾の翅(はね)やまき散らされた鱗粉(りんぷん)を思わせる、かすれた黒い汚れだ。この汚れは、クレーが編み出した独自の技法によりあえて付けられたもの。原理は単純で、作品となる紙に、黒い油絵の具を塗った薄い紙を重ね、さらにその上に原画をのせて、原画の線をとがった針でなぞる(要は宅配便の複写伝票のようなものをご想像いただけばよい)。なぞる力の強弱や動きの緩急に応じて、原画の端正な線はほぐれ、表情豊かな線が画面に転写される。線の他にも、手を置いた場所には当然その跡が残るだろう。この蛾の羽ばたきは、何か幅広の板のようなもので扇状に擦った跡ではないだろうか。

 1930年に「世界美術全集」のカラー口絵にもなった本作は、早くから日本でも多くの人を魅了した。ドイツで銀行員をしていた和田定夫もその一人。クレーのパトロン宅で憧れの実物に出会った和田は、すぐさま交渉して本作を手に入れ、日本にもたらした。また、学生時代にやはり同じ口絵に魅せられたのが、アニメ映画監督の高畑勲だ。のちに高畑は、本作の黒い汚れをアニメの世界で「お化け」と呼ばれる、動く物体の後ろに残像を描く手法にたとえた。本紙に掲載することで、蛾はまた見知らぬ誰かとすてきな出会いを果たしてくれるに違いない。

PROFILE:

パウル・クレー(Paul Klee)(1879~1940年)

スイス生まれ。ドイツで美術を学び、バウハウスで教壇に立つ。ナチスの台頭により職を追われ、世俗から逃れて制作を続けた。残した作品は生涯で9000点を超える。

INFORMATION

愛知県美術館(052・971・5511)

横浜美術館、富山県美術館と共に3館の収蔵品から20世紀の西洋美術史をたどる「トライアローグ」展が6月27日まで開かれている。本作のほか約120点を紹介。休館は月曜(5月3日を除く)と5月6日。名古屋市東区東桜1の13の2。富山にも巡回する。

2021年4月26日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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