日本語版『ミュージアムにおけるクリエイティブ思考』

【ART!】
人を力づける当事者性

文:稲庭彩和子(いなにわ・さわこ=国立アートリサーチセンター主任研究員)

 近年、さまざまな領域で「当事者性」が肝要となってきている。たとえば今年6月に二つの重要な法律が公布された。「孤独・孤立対策推進法」と「認知症基本法」だ。この二つの新しい法律の注目すべき点も「当事者性」にあるという。「認知症基本法」では、認知症の状態にある本人が政策の形成過程に参画し、また法律から具体的に施策を計画するにあたっても認知症の本人など「当事者」に意見を聞く必要性が明記されている。今、いくつかの自治体では認知症の本人同士が語り合う「本人ミーティング」など当事者の声を重視する活動が地域で重ねられているが、当事者の参画の流れは今回の法律によってより明確に位置付けられた。成熟した民主的な共生社会には「当事者の参画」が肝要だとの認識は、たとえば2006年に国連で採択された障害者権利条約の際に使われた「私たちのことを私たち抜きで決めないで(Nothing About Us Without Us)」という合言葉で可視化され、今では国際的に標準設定となりつつある。

 現代美術の領域では「ソーシャリー・エンゲージド・アート」と呼ばれるような、社会との関わりを創造的に開く、対話や協同など実践のプロセス自体を「作品」として提示するものが増えている。ここにおいても「当事者性」が作品の骨格をなすことが多い。

 22年に英国のベアリング財団から発刊された『Creatively Minded at the Museum(ミュージアムにおけるクリエイティブ思考/日本語版)』(日英版共にオンラインで閲覧可 URL:https://ncar.artmuseums.go.jp/reports/learning/wellbeing/research/post2023-350.html)には、孤立感、不安やうつ病など精神的な苦痛を抱える人々に対し、芸術を通して関わりをつくる美術館・博物館の16の取り組みがリポートされている。序文として「当事者」であるアーティストのドリー・セン(身体障害があり、労働者階級の性的マイノリティーであると表記されている)が文章を寄せている。「子供の頃、ミュージアムが大好きでした」からはじまるその文には、自己の記憶をたどって、精神疾患の体験とアーティストとして美術館での展示を通して何を感じ、どんな発見があったのかが述べられている。ミュージアムのコレクションの一部には人種差別や障害がない人を優先してきた事実が含まれ、それに当事者として関心を寄せながらパブリックな場に出す作品を構築する過程では、想像を超える粘り強さが求められるに違いない。

 16の取り組みは、ミュージアムという場を梃子(てこ)にして当事者が社会に関わる接点を創造的に切り開いている事例ともいえる。当事者性をもって外界に関わるプロセスは必然的に人を創造的な状態にする。その創造性が機動している状態は人を力づけることが事例を通してよくわかる。あとがきに英国バースのホルバーン美術館の館長が書いている。「鑑賞者から関心が寄せられなければ、展示物はただの生気のない物体にすぎません。誰かが興味を抱き、その人の知識や感情、人生経験を投影することで、その展示物は唯一無二の方法で命を得るのです」

2023年10月8日 毎日新聞・東京朝刊 掲載

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