TETRA—HOUSE完成時 1983年=安齊重男撮影

 日常とアートの出合いを鮮やかに差し出してきた、パリ在住の川俣正さん(70)。国際的に活躍する川俣さんの原点とも言える試みが、札幌市で1983年に民家を舞台に発表した「TETRA—HOUSE(テトラハウス)326」をはじめとする「アパートメント・プロジェクト」だ。美術館を飛び出し、市民と共働して制作するスタイルは、40年前の日本に驚きをもたらした。

ギャラリーエークワッドが入るビルに設置されたインスタレーションの前で話す川俣正さん=東京都江東区で、高橋咲子撮影

 東京都江東区のギャラリーエークワッドを訪れると、いつものエントランス付近の景色が変わっていた。白い小屋に、細い木材を縦横に張り巡らせたインスタレーションで、一目で川俣さんの作品だと分かる。

制作過程を記録した写真を紹介するエークワッドの展示=東京都江東区で、高橋咲子撮影

 エークワッドでは、「川俣正『アパートメント・プロジェクト』1982-86ドキュメント展」(9月7日まで。日曜と8月20日まで休館)が開催中で、「テトラハウス」に関わったキュレーターの正木基さん(72)の協力の下、映像や写真、マケット、雑誌などの資料から当時の熱気を伝える。82年末に東京で発表した「宝ハウス205号室」から、86年にオランダ・ハーグで発表した「SPUIPROJECT」までをアパートメント・プロジェクトと位置づけ、総括するものだ。

宝ハウス205号室(東京) 1982年=宮本隆司撮影

 建築との関わりも面白い。川俣さんは「建築は門外漢」だと言うが、逆に「建築家に(早くから)興味を持たれていた」。さかのぼって80年には、建築家の故・倉田康男さんが主宰した高山建築学校に講師として招かれ、アパートメント・プロジェクトの胎動を感じさせるインスタレーションを制作していた。建築家の故・磯崎新さんや隈研吾さんとの付き合いも長いと話す。

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 初めての国際展は、伊ベネチア・ビエンナーレの日本館代表。東京芸大大学院在学中の82年に抜てきされた。「ずいぶんいさんで行ったんですけど、僕のインスタレーションのような仕事は浮いた状態になっていた」。他国のパビリオンでは絵画や彫刻が多くを占めていた、と振り返る。だからこそ「美術館とかギャラリーといったアートワールドの第一線じゃないところで、自分なりの方法論を作ろうと思ったんです」。

 第1弾の宝ハウスを見に来た人はわずか約20人。そこから連鎖するように各地でプロジェクトが続き、テトラハウスは4番目。制作過程を写真や映像で記録し、連動企画として写真家・安齊重男さんの写真展やプラン・ドローイング展を開催。事後には記録集が刊行された。「企画から材料調達、資金繰り、展覧会やシンポジウム、解体して廃材を返すまで。プロジェクトのフォーマットが整った感じがしました」

TETRA−HOUSE制作中の川俣さん(左)とスタッフ=曽我恵介撮影

 実行委員会に参加したのは、当時北海道立近代美術館学芸員だった正木さんが声をかけた美術系の学生ら。作家の岡部昌生さんも名前を連ね、展示された記録写真からも多くの人が出入りする様子が分かる。「要するに川俣さんにみんなはまっちゃったってことですね」(正木さん)

 プロジェクトは参加者の「その後」も変えた。当初売り家にするつもりだったテトラハウスのオーナーは、この民家を人びとが集う展示フリースペース兼カフェにした。進路を変えて現代美術に取り組むようになった人、美術評論の道に進んだ人もいる。

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 「住宅街のど真ん中に出現した『芸術作品』」「『工事中』という名の前衛芸術展」--。展覧会で紹介する当時の週刊誌の見出しは、日常空間で見慣れないものと出くわした驚きを伝える。美術館で「鑑賞」することが当たり前だった時代、制作過程も含めてアートだと示す手法は新鮮だっただろう。

 現在、自然や都市空間を舞台に展開する芸術祭も多い。川俣さんは今の状況を「了解されたなかでやるイベント」に例えつつ、話す。「あつれきのなかで、『アートって一体何だ』みたいな話が始まるのに、受け入れる側も既にイメージを持っている。そこ(芸術祭など了解された条件下で展開する)から先に行くようなプロジェクトがこれから出てくるのかな」

2023年8月14日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

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