いびつなつぼ、段ボール製のような箱、勢いよく走る点線――。陶芸家、河本五郎(1919~86年)のやきものは見たことのない形をしていたり、模様が施されていたりする。作陶の軌跡をたどる「河本五郎―反骨の陶芸」が菊池寛実(かんじつ)記念智(とも)美術館(東京・虎ノ門)で開かれている。東京では没後、初となる回顧展。8月20日まで。
陶磁器の産地として長い歴史を持つ愛知県瀬戸市の生まれ。生家も和食器を製造した。戦後、中国から復員すると染め付けの名家、河本礫亭(れきてい)の養子になる。50~80年代にかけて日展を舞台に発表を続けた。土味を強調する陶器の表現は「五郎調」と呼ばれ、追従者も生んだが、没後、その仕事がまとまって紹介される機会はほとんどなかった。
生前は「奔放不羈(ふき)の陶芸家」と称された。展示室に並ぶ約70の作品を見ていくと確かに、束縛から逃れ、自由自在に思考し、制作する姿が浮かぶ。しかし、本展を担当した島崎慶子主任学芸員は「浮世離れしていたわけではなかった」と言う。そして「作品展開のベースには論理的思考があり、新しい時代のやきものを志すなかで既存の枠組みを作り直し、超えようという気骨にあふれた人物だった」と語る。
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前半の陶器、後半の磁器と、制作は大きく二つの時期に分かれる。
新素材としてもてはやされたプラスチックなどにやきものは機能面でかなわないと考えた河本は、陶磁器は「将来そのすぐれたマチエールをもった、表現素材としてのみ活路をみい出し、またそれのみによって、存在する」と見据えた。60年代の、ひびやしわ、ゆがみを生かし、土の質感や量感を押し出した陶器は高い評価を得た。
瀬戸ではろくろを使った成形が一般的だが「量産のための一つの方法、道具にすぎない」と距離を取り、くりぬいたり、板状にした粘土を組み合わせたりして思う形を模索した。
70年代に入ると磁器の制作に移る。直方体がねじれる「赤絵の壺(つぼ)」は石こうで型取りした。そこに伝統的なモチーフ、竜を描く一方、マンガのコマ割りのような直線模様で面のずれを強調した。段ボール箱のような「色絵撩乱(りょうらん)の箱」では、その開いた口と描いた男女の足が連動し、形と模様を一体的に追究している。裸で踊り歌う男女をいっぱいに描いた「染付歌垣文四方壺」にはコンプレッサーで泥状の土を吹き付けた。つるりとした磁器のイメージとは対照的な表情だ。中国陶磁や青銅にルーツをたどり、その要素を取り込んだ作品もある。
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同時期、陶芸界をリードしていたのは用途のない「オブジェ焼き」で知られた京都のグループ「走泥社」だった。現在、京都国立近代美術館では「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」が開かれており、来年4月には智美術館にも巡回する。「走泥社を軸に現代陶芸史を振り返る前に、同時代、異なる場所で、同様に新たな陶芸を追究していた河本という存在を示しておきたかった」と島崎さんは話す。
歴史と伝統に学びつつ、見たこともない新しい美しさを求め続けたその姿には背筋が伸びる思いがする。
2023年7月31日 毎日新聞・東京夕刊 掲載