「麻生三郎展」の展示風景。麻生は「立体デッサン」と称して彫刻も残した。右奥の絵は、警官隊と衝突し亡くなった樺美智子を描いた「仰向けの人」=平林由梨撮影

 敗戦後の東京で画業を再出発させた洋画家、麻生三郎(1913~2000年)、大沢昌助(1903~97年)、植竹邦良(28~2013年)の展覧会が、それぞれ関わりの深い東京都世田谷区、練馬区、府中市の公立3美術館で開かれている。東京の戦後を、3人の仕事から考える、またとない機会になっている。

自宅前で妻、娘と写る麻生(右)、1950年、撮影:土門拳、土門拳記念館蔵

 世田谷美術館は「麻生三郎展 三軒茶屋の頃、そしてベン・シャーン」(18日まで)で、麻生が30~50代を過ごした世田谷・三軒茶屋時代を振り返る。

 戦争末期の空襲で豊島区のアトリエを焼かれた麻生は48年、三軒茶屋に越してくる。50年代の作品は、連作「赤い空」のように赤黒い色彩が画面を覆う。直立する人間、背後の煙突やクレーンには、復興から経済成長へと位相を移した東京の、人間的スケールを超えた変貌への不安がにじむ。

 安保闘争が始まると、警官隊と衝突し亡くなった樺美智子や、ベトナム戦争に抗議して命を絶った僧侶を描いた。背景と人物はほとんど融合し、抽象化する。絵の具を盛ったり削ったりをくり返したマチエールは赤くただれた皮膚のようだ。

 アメリカの社会派画家、ベン・シャーンを敬愛したことからも分かるようにヒューマニズムが創作を貫いた。社会を批評するにとどまらず、自身の内面をもえぐり、解体する絵画は厳しく、重いが、挿絵や装丁の仕事、土門拳が写した家族との写真にはやさしい表情も見える。同館の池尻豪介学芸員は「真っ向から社会と向き合い表現した誠実さ、切実さは、さまざまな困難を抱える今の時代にこそ響く」と語る。

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 一方、「人間というものにくっついているヒューマニズムとかロマンチックなもの」から意識的に距離を置き、晩年にかけてシンプルな形や色による伸びやかな抽象画を展開したのが練馬区立美術館が「生誕120年 大沢昌助展」(同日まで)で回顧する大沢だ。

大沢昌助が1996年に描いた「自画像」

 父親は東京美術学校図案科第二部(建築科)の教授で、自身も同校西洋画科を首席で卒業したエリート。当時の洋画家には珍しく、海外留学には興味を示さず、シュールレアリスムやフォービスム、アンフォルメルといった時代の潮流とも一線を画した。戦争による作風の変化も見られなかった。古代ギリシャ彫刻や、原始美術などから着想を得て、ひょうひょうと独自のポジションを取った。

 旧国立競技場、世田谷区役所、都議会議事堂といった都内のランドマークに壁画を残し、時代を彩った。新たな画材、技法を試しながら、一つの描き方にはこだわらなかった。そして音楽が聞こえてくるような線と色の組み合わせの妙は晩年に頂点を迎える。

60年代以降に大沢が手がけた作品の展示風景=平林由梨撮影

 実は、生前の大沢と練馬区にゆかりはない。生まれは現在の港区、アトリエは大田区にあった。しかし同館はその作品を100点以上コレクションし、過去4回も展覧会を企画している。加藤陽介学芸員は「地方出身の作家は地元であつく顕彰されるのに対し、東京出身の作家はその受け皿が乏しい。東京の作家を検証、顕彰するのは都内の公立館の責務」と話す。

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 府中市美術館は、これまでほとんど取り上げられることのなかった植竹を展覧会「発掘・植竹邦良」(7月9日まで)で近代日本美術史に位置づけようと試みる。

植竹邦良「最終虚無僧」(1974年)

 猪熊弦一郎が主宰する美術研究所で学び、小学校教師や絵画講師をしながら描いた植竹。学園闘争やデモなど、街で焼き付いた記憶を大画面で解体、反復させ、夢幻的な世界を繰り広げた。80年代には膨張を続ける都市・東京に関心を移し、鬼気迫る細密描写でその全貌に迫った。

 描いて社会と切り結んだ三者三様の道のりは、この時代に見る人をも鼓舞する。

2023年6月12日 毎日新聞・夕刊朝刊 掲載

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