美術品は、果たして「目で見る」ものなのか。作品の形態が多様化する一方、美術館もまた、視覚障害者を含む、さまざまな人に開かれた場へと変化しないといけない。こうした意識のもと、多くの美術館にて「目で見る」以外のアプローチが積極的に試みられている。さらに突っ込んで、視覚、聴覚、触覚などの知覚は、もの作りや表現、日々の経験といかに関わるかを探る展示もある。
現在、開催中の「眼(め)で聴き、耳で視(み)る―中村裕太が手さぐる河井寛次郎」(京都市・京都国立近代美術館)もその一つだ。陶芸家、河井寛次郎(1890~1966年)の作品や周辺資料を、美術家である中村裕太が手さぐりし、寛次郎のもの作りに迫る。
さて、中村が注目したものの一つに、河井寛次郎が自宅の階段に備えつけた数珠のような手すりがある。手すりは体を支えるための物なので、安定した形がよい。ところが、寛次郎は木製の玉を上から吊(つ)って、揺れ動く手すりとしている。
本展示では、これら寛次郎の制作と生活を特徴づける物(数珠状の手すりの他、庭の丸石、木の狛犬(こまいぬ)、真鍮(しんちゅう)のキセルなど)を、中村があらためて陶で創作し、それを鑑賞者は触って鑑賞する。展示室でややかしこまって触れるためか、鑑賞者はおのずと自分の触覚に集中する。こうして、知覚を研ぎ澄ました上で、再度、寛次郎の作品や資料に出合い直すと、あの手すりは、フリードリヒ・フレーベルの木のおもちゃのように掌(てのひら)で玉を動かして楽しむものなのか、など想像がよりふくらむ。そして鑑賞者は、寛次郎がいかに敏感に物と手で交渉していたのかを、自分の手や耳を通じて捉えるのだ。
なお、寛次郎は、手をかたどった木彫や陶器を数多く制作した。それら手をモチーフとした作品については、仏教との親和性や、フォークアートとの類似が指摘されているようだ。しかし中村裕太の手をへると、ごくシンプルに「触れてみよ」という寛次郎のメッセージとも感じとれる。
実際、寛次郎の家を後日、訪れたところ、あまりに豊富な触覚に満ちていることに驚かされた。い草縄を編んだゴワゴワとした敷物。冷ややかな輝きを放つ陶器。ゴツゴツと硬質な木の彫刻と、角がとれてすべすべとした木の家具。
さて、そんな河井寛次郎家の食卓によく登場したメニューが茶碗(ちゃわん)蒸しらしい。つるりとなめらかな卵液の中に、シャキシャキした三つ葉、歯応えのある海老(えび)、少しもちっとした銀杏(ぎんなん)、ジューシーな椎茸(しいたけ)がひそむ。多彩な具材のおかげで、口に含むごとに異なる触覚と出会うことになる。納得せざるをえない。
「眼で聴き、耳で視る―中村裕太が手さぐる河井寛次郎」はコレクション展で5月15日まで。
2022年4月10日 毎日新聞・東京朝刊 掲載