ホットケーキ作りの醍醐味(だいごみ)の一つは、フライパンの上のホットケーキをひっくり返す瞬間に違いない。表面は小さな泡が立ちまだ半液体状、しかし下面はすでにスポンジ状に固まっている。このタイミングを見極めたら、ためらわずホットケーキを宙にほうり反転させた後に、再びフライパンへ。
写真家、長島有里枝(1973年生まれ)のホットケーキの写真「Today’s pancake」(2020年)は、焼き色から判断するに、この宙返りをした後のホットケーキである。タイトルには「パンケーキ」とあるが、ごくオーソドックスな生地の厚みや、使い込まれた様子のフライパン、ガスのゴム管が醸し出す台所の雰囲気から、つい「ホットケーキ」と呼びたくなる。
現在、この写真を含む長島の作品が、展覧会「DOMANI plus@愛知 まなざしのありか」で展示されている。本展は、長島が近年、制作した複数のシリーズをコンパクトにまとめたもので、写真に加えて、手前にはタープ状の立体作品、奥にはテント状の立体作品もある。そして、展示室の最奥部、テントの裏側に飾られているのがこのホットケーキの写真である。
テント状の作品「Shelter for our secrets」(16年)は長島が実母と共に、古着や端切れをパッチワークのように縫い合わせて作ったものだ。海外でお針子として働くことを夢見るも、それを諦めて家庭に入った母の人生を、長島は表現者として娘として、別の形で具現化させる。手縫いならではのほっこりとした見かけながらも、テントの中は薄暗く、布地は重くたわんでいる。家庭は、安らぎの場所であると同時に、一種の重しとなって、母親をはじめとする多くの人々を縛ってきたことも、暗示する作品だ。
ところで、重しとは、まさに重力に他ならない。ホットケーキは、一瞬、重力から解き放たれ宙を舞う。しかし、自重のままに再びフライパンの上に着地する。これら一連の流れはごく自然に見えるかもしれないが、多くの躊躇(ちゅうちょ)と決断、技術、偶然の結果だ。
家庭が発する重力に対し、できる限り抗(あらが)い飛びたとうとする者。その衝動をなんとか封じ込め現状維持しようとする者。家庭を支える確かな重力にこそ安寧を感じる者。これら一見すると相異なるパーソナリティーが、どんな人の中にも、しかも顔色一つ変えないまま共存しうるのではないか。
そして、否定であれ肯定であれ、家庭に備わる重力に思いを馳(は)せる時に、人はホットケーキを焼くのではないか。長島のホットケーキは小ぶりながらもみっちりと重い。
「DOMANI plus@愛知 まなざしのありか」は名古屋市の港まち会場にて3月12日まで。
2022年2月13日 毎日新聞・東京朝刊 掲載