「ミス・ブランチ」1988年、富山県美術館蔵、柳原良平氏撮影 ©Kuramata Design Office
「ミス・ブランチ」1988年、富山県美術館蔵、柳原良平氏撮影 ©Kuramata Design Office

【ART】
倉俣史朗デザイン展 工業素材×詩情 独自の頂 東京・世田谷

文:2023年12月18日 毎日新聞・東京夕刊 掲載

デザイン

 東京・世田谷美術館で開かれている「倉俣史朗のデザイン――記憶のなかの小宇宙」(2024年1月28日まで)は56歳で早世したデザイナー、倉俣史朗(1934~91年)による先駆的なデザインの源泉に迫る東京では27年ぶりとなる回顧展。アクリルやガラス、アルミからなる家具やインテリアデザインに通底する独特の詩情を、幼いころの記憶、ノートやスケッチに残した夢日記などからひもとく。

 倉俣は、東京・本駒込の父親が勤める「理化学研究所」の敷地内にある社宅で生まれた。広大なその土地には配管から蒸気が噴き出る工場が建ち並び、色とりどりの薬瓶が積まれていたという。一方、研究棟はガラス戸から葉を透かした日が廊下に降り注ぐ静かな場所だったそうだ。「宝島であり天国だった」と倉俣は振り返っている。

倉俣がデザインしたショップ「スパイラル」の様子=90年、淺川敏氏撮影 ©Kuramata Design Office
倉俣がデザインしたショップ「スパイラル」の様子=90年、淺川敏氏撮影 ©Kuramata Design Office

 桑沢デザイン研究所を卒業。東京・銀座の交差点に建設が予定されていた「三愛ビル」のインテリアデザインを手がけたいと23歳で三愛に入社した。ショーケースやハンガーラックを極限まで透明にすべく、素材には異例のアクリルを採用。商品が浮いて見えるデザインは高い評価を得た。

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手前は板ガラスを接着した「硝子の椅子」、奥の左から二つ目は「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」
手前は板ガラスを接着した「硝子の椅子」、奥の左から二つ目は「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」

 独立後に手がけた「硝子の椅子」や、カラーガラスの破片を人造大理石に埋め込んだテーブル「トウキョウ」、メッシュ状の金属板による椅子「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」などはどれも思い切った試みが見る人をワクワクさせると同時に考え抜かれた形だと伝わる。工業製品の親しみやすさとある種の神秘性が同居する姿に、倉俣が幼いころ見ていた風景が重なる。

「人間といちばんコミュニケーションが強い家具」として多くの引き出しもデザインした
「人間といちばんコミュニケーションが強い家具」として多くの引き出しもデザインした

 同時代の美術家とも親しく交流し、81年にはイタリアのデザイン運動「メンフィス」に参加した。海外での発表の場を得て国際的な知名度を高めると同時に、作品に明るい色彩を取り入れるようにもなった。また、このころの主要な仕事であったイッセイミヤケの店舗デザインの数々は多数の写真からうかがい知ることができる。

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アクリルを用いた透明な家具
アクリルを用いた透明な家具

 作品はほぼ時系列にそって見せている。アクリルに赤いバラの造花を封じ込めた代表作「ミス・ブランチ」は、80年ごろからつけはじめたという夢日記と共に最後の展示室に並んだ。こんな夢日記があった。

 死の恐怖のすえに至った薄いピンクの霧のなか。ハスの花が無限に咲いている音のない世界――。

 いくつもの小さなハスのイラストが添えられていた。花の種類は違うが、ミス・ブランチのイメージソースだろうかと想像する。無意識や夢を探究した芸術家はたくさんいるが、家具や空間のあり方を考えるうえでそれを重視したデザイナーは珍しい。

 ガルシア・マルケスやボルヘス、ギュンター・グラスらの小説やキース・ジャレットのレコードなど、蔵書や愛聴盤も紹介する。自身が使うプラスチックなどが引き起こす環境汚染に悩む姿や、小説家の野坂昭如が参院選に出馬した際に選挙運動を手伝ったエピソードなどが、デザイナーの顔とはまた別の一面を伝え、興味深い。

 倉俣のデザインは日本の経済成長と軌を一にし、その絶頂で終止符が打たれた。もう少し、その先の時代を生きていたらどんな作品が残ったか。そう思わずにいられない。

平林由梨(毎日新聞記者)

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