「アートで健康になる」と言われたら、なんだかうさん臭いと感じるだろうか。では「創造的な活動は、健康に良い影響を及ぼす」と言われたらどうだろう。
実は21世紀に入り「健康によい影響を与える」アート活動についての研究が大幅に増え、人々の健康と幸福(ウェルビーイング)に資するアート活動や文化政策が、ヨーロッパをはじめ多くの国々で見られるようになってきた。例えば従来の医療で課題となっている認知症などの病気の予防や、生活習慣病の管理、また望まない孤独や社会的孤立などからくる精神的な疾患に対し、アートが新たな役割を提供する可能性を世界保健機関(WHO)の報告書が伝えている。
WHOは、健康とは単に病気がないという状態ではなく、身体的・精神的・社会的に健全な状態であると定義している。食事・睡眠・運動は健康にとって大切だが、それと同時に私たちの健康には精神的な充実が欠かせない。つまり自分の内心とのつながりや他者とのつながりなど、今生きている世界につながりを感じていることが、健康と大きくかかわっている。アートの特質は、やはりこの精神を含む身体感覚全体への働きかけができることだろう。コロナ禍での経験としても、人の心と体は密接に連動し健康に影響することが再認識されているところであり、アート活動が健康に良いということを科学的に裏付ける、いわゆるエビデンスへの国際的な関心が高まっているのだ。
筆者が所属する独立行政法人国立美術館国立アートリサーチセンターは、この3月に国立美術館の新しい組織として発足したばかりだ。その新規事業の中に「健康とウェルビーイング」という分野がある。人々の健康や幸福に関わるアート活動に注目して調査研究を行い、福祉・医療機関や大学等と連携して取り組んでいく。例えばこの4月からは東京芸術大学を拠点とする産学官の10年にわたる大型プロジェクトが始まった。美術、福祉・医療、テクノロジー分野の専門機関や、企業や自治体を含む37機関の知見や技術を掛け合わせ、アートや地域の文化の力を活(い)かした「文化的処方」と命名した活動を推進し、地域に展開することで、誰もが社会につながりを持ち、幸福で健康的な生活を送ることのできる社会づくりを目標に掲げている。
かなり壮大な夢を描くプロジェクトであるが、未来の社会では、お医者さんに「薬の処方箋」を出してもらうように「文化的処方」を誰もが選択でき、例えば独居の高齢者が遠くに住む友達数人とバーチャルで作品を見ながら語り合う日もあれば、近所には誰でもふらり立ち寄れるオープンなアート活動の場所があり、介護施設では美術館のプログラムを楽しめるようになる――。「2023年はアートによる健康とウェルビーイングの元年」と振り返る日がくるかもしれない。そんな未来を思い浮かべながら、新しい春の仕事を始めている。
2023年4月9日 毎日新聞・東京朝刊 掲載